今年は山形の年―直江兼続

takase222009-05-08

私は母の実家のある、今の山形県高畠町で生まれた。
昔は、嫁が里に帰って産婆さんを呼んで出産したからだ。
写真はJR高畠駅。新幹線で福島県から山形県に入ると米沢の次だ。とんがり屋根の積み木のような駅舎は、童話作家、浜田廣介からイメージしたという。ちょっと不満なのは、西洋メルヘン調にしたこと。ひろすけ童話といえば代表作は「泣いた赤鬼」、純和風ではないか。
この高畠駅、駅に温泉があるので知られている。宿泊施設もあり里帰りのときに利用している。
娘が受験の年なので、駅で自転車を借りて、日本三文殊の一つ、亀岡文殊堂におまいりに行った。うっそうとした山の木々に抱かれた由緒あるお寺である。http://yamagata6.blog118.fc2.com/blog-entry-238.html
いま山形はどこも「天地人」のポスターが貼ってあり直江兼続フィーバーだが、文殊堂も兼続との縁をアピールしていた。そこで配っていたのが、文殊堂で催された上杉家の詩歌会の資料だ。
関ヶ原の翌々年、西暦1602年2月、兼続は文殊堂で詩歌の会を主催し、27人が集り、漢詩33首、和歌67首の百首が詠まれ奉納されている。兼続は7首の漢詩を残している。
年表を見て驚いた。関ヶ原の戦いが1600年9月(以下、月は旧暦)。このとき兼続は上杉軍の総大将として、今の山形県上山あたりで、徳川方の最上家と激戦していて関ヶ原には行っていない。関ヶ原の敗戦で、石田三成側についた上杉家は、責任を取らされ、翌1601年8月に、会津120万石から米沢30万石へと減封を言い渡される。
会社で言えば四分の一の規模までリストラするという大変な事態にもかかわらず、六千人とも八千人とも言われた家来とその家族はそっくり引き受けるのである。しかも領地替えだから、家臣らを引き連れて米沢に移り住むわけだ。みなに新たに土地を分け、家を一軒一軒あてがうところからやらなくてはならない。お家はじまって以来の大騒動だったはずである。
お沙汰が下され、前田慶次らが米沢に着いたのが11月。詩歌会開催がそのわずか3ヶ月後の2月なのだ。移封騒ぎのどたばたの最中ではないのか。こんな時に、兼続はどういうつもりで詩歌の会を開いたのだろうか。7首のうちには忍ぶ恋を詠った「逢恋」という詩もある。http://www.naoe-kanetugu.com/trip_yonezawa/kameokamonju.html
恥ずかしながら、ブームになるまで、直江兼続という人物を知らなかったのだが、だんだん興味がわいてきた。NHK大河ドラマをほとんど観たことがなかったが、あさってから録画しよう。
詩歌の会には前田慶次も参加して和歌5首を詠んでいる。この人物は、「前田利家の甥にあたり、戦国の世を自由に生きぬいた傾奇者(かぶきもの)」だそうだ。http://www.yamagatakanko.com/feature/theme/maeta/
「生きるだけ生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ」で終わる「無苦庵記」が人気だそうだが、また面白い話でも見つけたら、取り上げてみたい。http://stojkovic.blog20.fc2.com/blog-entry-1260.html