戦犯タクマを追って5

 東地琢磨の罪状は何だったのか。
 起訴状によると、おびただしい数のフィリピン人の殺害、虐待、拷問を行なったことになっています。これに対して、被告側弁論では、東地はそのほとんどを「知らない」あるいは「関知していない」と主張しています。一つの事件については、フィリピン人を刺殺したことを認めていますが、これは相手がボロ(山刀)で攻撃してきたさいの正当防衛だと主張しています。
 しかし、判決では、東地は名前が判明している民間人12人を単独で殺害し、氏名不詳の民間人10人を他の兵隊とともに殺害し、そして数百人を虐待、拷問したことについて有罪とされました。これをみると東地はまるで鬼のような人間ということになります。
 BC級裁判については、「政治的な復讐裁判だ」という批判の声もあります。戦後のどさくさですから、手続きの厳密さを要求するのは酷かもしれませんが、東地の場合でも、起訴明細状が渡されたのが45年12月17日、起訴されるのが3日後の20日、そして翌年1月7日には死刑の宣告という大変なスピードです。
 裁判はわずか数日間で、この間に数百人にのぼる被害者について反証することは、誰が考えても無理な話です。実際に兵士としてフィリピンで戦った八木さんたちに聞くと、一介の現地通訳にすぎない東地が、自ら手を下してこれだけの残虐行為をするというのは、どうにも不自然だと言います。

 40年以上も昔のことで、今となっては、真実はどうだったのか、確かめることはもはや不可能ですが、調べていくうちに分かってきた琢磨のエピソードをいくつかご紹介しましょう。
 琢磨には、日本に帰った兄と、2人の腹違いの妹がいました。父親の庄三郎さんは最初の奥さんが亡くなったあと、やはり山岳民の女性と結婚しています。兄の輝一さんはその後、バターン戦(バターン半島での戦闘、多数の米軍捕虜が衰弱死した「死の行進」で知られる)に従軍しにフィリピンに来ているのですが、家族とは会わずに日本へと送還されていて、妹のことを知りませんでした。
 上の妹が41年生まれのフリエタ、日本名初子。下の妹が43年生まれでアイリーン、日本名とし子です。私は、マニラのシスター上田や河崎明彦さんという方に、妹さんたちの存在について教わりました。河崎さんとは、文通をしたり、河崎さんがマニラに来られたときにお話をうかがったりしました。
 河崎さんは新聞に告知を出したり、戦友会などをあたって東地の家族について懸命に調べました。その努力の結果、75年、兄の輝一さんは二人の妹さんに初めて会うことができました。その河崎さんの協力で、NHKが「KUMA(タガログ語で「お兄さん」)タクマ」という30分のラジオ番組を作り、80年の終戦記念日に放送しています。私は西本神父のところで番組を聞かせてもらいました。また河崎さんは、81年8月、東愛知新聞に「13階段への道」と題する4回の連載を書いています。父親の庄三郎さんは、残念ながら、娘たちに再会することなく、67年に亡くなったそうです。
(つづく)