戦犯タクマを追って1

takase222009-02-23

日本軍に対する戦犯裁判は50箇所以上で開かれ、千人近い人が死刑になった。最初の処刑が行なわれたのがマニラ法廷だ。1946年のきょう、2月23日である。
A級戦犯の死刑執行が1948年12月23日。マニラ法廷の死刑はこれより3年近く早い。
その死刑第一号は、第14方面(フィリピン)軍司令官の山下奉文(ともゆき)大将だった。そのとき一人の混血青年が同時に処刑されている。フィリピンの日本軍のナンバーワンとこの青年の組み合わせが気になった。資料を集め、関係者に聞きまわっておもしろいと思い、テレビ番組用に企画を書いたが実現しなかった。

当時、自分でも残念に思ったのだろう、周囲の知り合いに「こんな秘話があるんだよ」としゃべりまくったようだ。それを聞きつけたのか、『フィリピカ』という雑誌を編集していた碇(いかり)さんという方から連絡があって記事として書いてくれと言う。『フィリピカ』は、フィリピン在住の日本人向けの雑誌で、手書き原稿をコピーして製本したものだ。
私はしゃべるのは好きだが、書くのは苦手だったので、碇さんに、録音したテープを起こしてまとめていただいた。以下、連載する。文章は分かりやすいように少し書き換え、注を入れた。

戦争犯罪人“タクマ”をめぐって
―父の国のために闘い母の国で死んだ混血青年―
 ある日、元日本兵でもある八木十三(やぎじゅうぞう)さん、この方はマニラ在住で、今でも、あの戦争について調べておられる方ですが、私を訪ねてきて、「東地(ひがしじ)を知ってますか?」と突然切り出されました。「山下大将と一緒に処刑された混血児だよ」と言います。
私は、当時、戦争犯罪人というのは偉い方から殺されたのだろうと思っていたものですから、なぜ、そんな人が山下大将と一緒に殺されなければならなかったのだろう、という素朴な疑問を抱いたわけです。
 調べていくうちに、1946年2月23日にロスバニオスで東地琢磨(ひがしじ・たくま)という23歳の混血青年が山下奉文(ともゆき)大将、太田清一憲兵隊長という大物と同時に処刑されている。しかも、それが日本の戦犯処刑の一番最初のものであるということを知りました。
この顔ぶれのアンバランスさが私の興味をそそり、そのいきさつを調べてみましょうと八木さんに約束したのが、取材を始めたきっかけでした。

 東地琢磨は1923年2月、和歌山県出身の移民、東地庄三郎とイゴロット(ルソン島北方の山地民)の母親との間にバギオ(ルソン島北部の中心都市、米統治下の避暑地で日本からの移民が多い)近くのトリニダッドで生まれました。三歳違いの輝一(きいち)という兄がいましたが、13歳の時に教育のために日本へ送られています。
琢磨は、バギオの日本人学校を卒業したあとカソリック系の学校を出、日本軍がフィリピンに上陸してくると、憲兵隊の使い走りをしていました。1942年6月からバヨンボン(ルソン島北部の町)の憲兵隊で通訳として働くことになりました。
1945年1月、米軍がルソン島に上陸、4月には、山下大将が司令部を置いていたバギオも陥落し、軍も民間人も山岳地方へと逃げていくわけですが、タクマもその中の一人でした。
そして、日本降伏後、戦犯として起訴されました。容疑はフィリピンの民間人の殺害・虐待です。1946年1月7日、絞首刑による死刑が宣告され、2月23日、山下大将とともに処刑されるという経過を辿ります。
(つづく)