共産主義との決別2

1972年、「新日和見主義」なる分派が共産党内に発生したとされ、大掛かりな粛清が行なわれたと前のブログで書いた。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090110
このとき本当はどんなことがあったのかについては公表されておらず、真実は今も不明だ。「新日和見主義」グループなどという「分派」自体存在しなかったのではないかと思う。
72年の「新日和見主義事件」からだいぶ経って、私の親しい人が除名処分となった。「日中出版事件」である。これが、私が共産主義運動に疑問を抱くきっかけとなったもう一つの事件で、言論の自由の問題に関わっていた。
私は大学で「中国研究会」に入った。60年代後半の「文化大革命」で、多くの左翼系大衆団体は分裂し、大学にも三つほど「中国研究会」を名乗るサークルがあった。私は日本共産党の方針に従って、キャンパスでは「革マル」および「統一教会」と闘い、サークル活動では「毛沢東盲従主義者」と闘っていた。(振り返ると、闘争に明け暮れていたのだなあ・・)
そのころ、日本共産党系の出版社「日中出版」http://www.nicchu-shuppan.jp/によく出入りし、アルバイトもしていた。社長の柳瀬宣久さんには本当にお世話になり、学生の私の雑文をこの会社が出していた雑誌『中国研究』に載せてもらったこともある。
その柳瀬社長が共産党を除名になった。地方自治体の議員をしていた奥さんや、複数の社員も処分を受け、党内ではかなりの大事件になった。
発端は、84年、夏の原水爆禁止世界大会を前にして、共産党中央が、原水協吉田嘉清代表理事らを批判し排除したことだった。吉田氏らを解任するために全国理事会が開かれたが、これに対して9名の理事のうち6名が連名で全国理事会召集を認めないと表明した。結局は違法かつ強引に吉田氏らの首をすげ替えた。このとき、古在由重、江口朴郎など共産党を代表する著名知識人が吉田氏とともに党を離れている。原水協原水禁の分裂のあと、77年から世界統一大会が開かれてきたのに、85年からまた分裂大会になった原因の一つがこの事件である。
柳瀬社長は、事実関係をはっきりさせる必要があると思い、吉田氏の言い分を載せた本『原水協で何がおこったか』を出版する企画を立てた。これに対して共産党中央は烈しい出版妨害を繰り広げ、党員である柳瀬さんや社員たちに出版を断念するよう圧力をかけたが、日中出版はこれにひるまずに本を出し、その結果として除名処分を招いたのだった。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gensuikinnundoco_syupanbogaizikenco.htm
柳瀬さんはさらに、この自らの体験を綴った『鮮烈なる体験−出版の自由と日本共産党』を出して闘った。私はまだ党内にあったが、柳瀬さんを尊敬しその闘いを応援していた。
限りなく自由な社会を目指しているはずの共産党という組織が、なぜこうなってしまうのかと私は深刻な疑問を抱くことになる。
(つづく)