覚りへの道3

道元鎌倉時代に生まれた。
生年が西暦でちょうど1200年に当たるから、歴史年表と照合するとき便利である。例えば後鳥羽上皇鎌倉幕府に対して兵を挙げた「承久の変」は1221年だから、道元は21歳だったことになる。
父親は、後鳥羽上皇の側近で、養女が産んだ子が土御門天皇になっているから、道元天皇の叔父さんに当たると言ってもいいわけである。道元が2歳のとき父親が、藤原一門の母親も7歳のときに亡くなる。
世は激動の時代で、平家は滅び、幕府を開いた源氏も骨肉の争いで3代で滅ぶ。貴族と武家との権力争いに加えて天災も頻発し、世の無常感を反映して、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の『平家物語』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の『方丈記』などが生まれた。同時代人である法然親鸞は「末法」という考え方にもとづいて浄土系の仏教を立てた。
生い立ちとこういう時代背景が与ってか、道元はわずか12歳で出家する。皇室の親戚で、実父も養父も「新古今和歌集」の撰者という超エリート貴族に生まれた道元が、自ら仏教修行に生きることを選んだというのは、王家に生まれたシッダルタ王子が出家したエピソードを思い起こさせる。
道元比叡山で学び、天台宗の僧侶になるのだが、根本問題にぶつかる。宋に渡ったのは、その問題を解決するためだった。それは・・
「顕密の二教ともに断ず、本来本法性(ほんらいほんほっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)と。もしかくの如くならば、即ち三世(さんぜ)の諸仏、何によってかさらに発心(ほっしん)して菩提を求むるや」
顕教(多くの奈良仏教)も密教真言宗に代表される)も、《人間は本来覚りという性質を持っている》、そして《生まれたままで覚っている》と言う。もしそうであれば、過去世、現世、来世の仏たちは、なぜわざわざ覚りたいという心、「発心」を起して覚りを求めたのか、と言うのである。
当時、「天台本覚(ほんがく)論」という思想があって、人間の煩悩のあるがまま、現状の姿そのままがすべて覚りなのだという考え方が、比叡山では主流になっていた。ありのままでよいということになる。
道元は「ありのままで覚っているのなら、今さら覚りたいという気持を起こして修行することは必要ないではないか」と疑問を持ったのだ。
そして何人もの高僧に尋ねたのだが、誰もきちんと答えてくれなかった。そこで、宋で臨済禅を学んだ栄西を訪ねるが亡くなってしまったので、その高弟の明全(みょうぜん)に17歳でつく。
明全は、道元も深く尊敬していた非常に優れた僧だったようだが、道元の根本疑問には答えられず、一緒に禅の本場、宋に渡って修業することにした。当時、宋に渡るというのは航海技術一つとっても命懸けである。道元もすごいが、明全もえらい。結局、明全は宋で亡くなってしまった。
道元は23歳で入宋。そして、天童山の如浄禅師のもとで25歳のときに覚ったという。
その体験を道元は「心身脱落」と表現したのだった。
(以上の記述は、岡野守也道元コスモロジー』を参考にした)
(つづく)