脱北者を受け入れる意味3―帰還事業は壮大な拉致

takase222008-12-06

今からは信じられないかもしれないが、この事業を、日本人の多くが支持、支援した。
第1船が出た新潟港東埠頭で、当時北朝鮮への「帰還事業」の支援活動をしていた小島晴則さん(77)にお話を聞いた。
帰還第1船が出た59年12月14日は、小雪の降る寒いだったという。新潟港東埠頭には、朝鮮総連だけでなく、小島さんたちが呼びかけた労組や青年団、婦人会などからたくさんの日本人も見送りに詰め掛け、身動きできないほどだったという。
58年秋、帰還事業を後押しする「在日朝鮮人帰国協力会」という組織ができて、小島さんはその新潟支部の事務局で働いていた。「協力会」は自民党から共産党まで超党派で、財界、労働界、各界著名人も名を連ね、代表委員には小泉元総理の父親で国会議員だった小泉純也氏がいた。小泉純也氏は、「帰国運動」が強力に展開された川崎市を選挙区に持ち、過去には朝鮮総督府で勤務していた経験もあったという。小泉家は親子二代にわたって北朝鮮との縁が深い。
自民党から共産党まで超党派で、とは言っても、それぞれ思惑は異なっていた。
左翼は社会主義朝鮮のすばらしい社会に住むのが幸福に決まっているとし、マスコミや「キューポラのある街」などに影響された多くの善意の人々は、差別のある日本より平等な生まれ故郷に行ったほうがよかろうという意見だっただろう。
一方、政府の一部には、「厄介払い」という考え方もあった。朝鮮人は左翼活動家が多く、生活保護を受ける比率が高かった。在日朝鮮人の四分の一が生活保護世帯だったという統計もある。たしかに左翼は多かった。戦後の日本共産党には非常に多くの朝鮮人活動家がいた。また、総じて貧しかったのも事実だ。(ただ、総連が生活保護受給の運動を繰り広げていたので、受給比率の高さがそのまま所得の低さを示すかについては留保しておく。)
要するに、朝鮮人は「文句ばかり言うカネのかかる存在」だったのだ。「厄介払い」とは、彼らが日本の外に出てくれるならありがたい、という意味である。
こういうのを同床異夢というのだろう。結果として、日本国民こぞってオールジャパンで、《お幸せに!》と「地上の天国」へ送り出したのだった。
なお、「厄介払い」の論理を重視して、帰還事業の責任が主に日本政府にあるとする議論があるが、これはバランスを失している。主導的に在日朝鮮人を煽り、「帰国運動」を繰り広げたのはあくまでも北朝鮮朝鮮総連なのである。
先月出版された朴斗鎮(パクトゥジン)『朝鮮総連―その虚像と実像』(中公新書ラクレ)には、北朝鮮朝鮮総連にとって帰国運動が持っていた意味が語られている。朴斗鎮さんはかつて朝鮮総連の熱誠活動家で朝鮮大学校の教員までしていた人だ。また、渡辺秀子さんが殺害され、子ども二人が北朝鮮に拉致された疑いが強いユニバーストレーディング事件http://nabesada.cocolog-nifty.com/meme/2007/11/1_a511.htmlの高大基(コデギ)と机を並べていたこともあった。この本には内部にいた活動家の目から「帰国運動」が赤裸々に語られている。
「帰国運動」は、労働党の戦略のもとに開始され、結果として金日成独裁確立に大きく寄与し、朝鮮総連組織力を急拡大させメンバーは50万人に達した。
向こうは地上の楽園なのだから、身一つで行っても大丈夫と言われ、莫大な土地や財産を総連に寄付していった人も多かったという。総連は巨大な財産をも手に入れたわけだ。
また、帰還した在日朝鮮人(帰国者)の日本に残った家族は、北朝鮮の首領様への莫大な送金源になったうえ、対日工作の協力者にまでされたのは周知の通りだ。指名手配拉致犯の辛光洙(シングァンス)は日本の海岸に上陸すると、帰国者の家族を尋ねて協力を求めていた。日朝を往復する帰国船には、対日工作の幹部が乗り込んで、工作指令船となった。
9万人を越す「帰国者」は北朝鮮の工作の「人質」にもされたのだ。もし、帰還事業というものがなかったら、日本人の拉致は規模のはるかに小さなものとなったに違いない。
「帰国」というと故郷に行くイメージがあるが、在日の脱北者たちは「帰国」という言葉は嫌いだと言う。在日朝鮮人の95%以上は地理的には半島南部、今の韓国の出身だ。北には親戚が誰もいないという人が多かった。北朝鮮は故郷ではないのだ。
「帰国」に反対した韓国支持の「民団」はこれを「北送」と呼ぶ。正式には「帰還」という言葉を使った。59年8月インドのカルカッタで「在日朝鮮人の帰還に関する協定」が日本と北朝鮮赤十字の間で結ばれ、「帰還事業」がはじまった。
「帰国」と言っても、実質的には見知らぬ土地に行くのだから「移住」というのに近い。
しかし、普通の移住と違うのは、移住先に関して、政治的プロパガンダで歪められ、誤った情報が当事者の判断を狂わせたことだ。
在日の中には、この帰還事業を「壮大な拉致」と表現する人もいる。たしかに日本人拉致をとっても、海岸から無理やり力づくでさらわれるのではなく、騙されて連れて行かれる拉致もあり、件数としてはこちらが多い。有本恵子さんなど第三国から拉致されるのはすべて「騙し」であり、田口八重子さんなどもそうだ。
ほとんどの人が、間違った情報を一方的に入れられて、まともな判断ができない状態で北朝鮮に渡った。日本人妻には「3年経ったら里帰りできる」という約束がなされたという。北朝鮮に行こうかどうか迷っていたが、この約束で決断したという人もいる。ところが、里帰りはもちろん、居住場所や職業選択の自由も、好きなだけ高等教育を受けられるという保証もすべてウソだった。
通常の移住なら、移住先にどうしてもなじめない場合には、元のところに戻ることができるが、北朝鮮への「帰還」では、日本に戻るどころか国内での移動の自由さえなかった。
日本に戻ってきた脱北者で、朝鮮総連を訴えた人がいる。「帰還事業は組織的な誘拐だった」として、慰謝料などを請求した高政美(コジョンミ)さんで、裁判が始まっている。http://hrnk.trycomp.net/mamoru6.php
さらに、60年代後半からは「帰国者」への締め付けが厳しくなり、突然一家が消え、収容所に入れられるケースが多発した。
在日帰国者の二世で一家で収容所に入れられた姜哲煥(カンチョルファン)氏によると、ヨドクという収容所に5千人の帰国者がいたという。
あす北朝鮮の収容所を廃絶するための「東京国際会議」が開かれる。http://nofence.netlive.ne.jp/これは市民団体NO FENCE主催。一方、市民団体のがんばりに比べて、政府の取り組みは弱い。
12月は「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」がある。拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題について国民の関心と認識を深めることを目的とする週間で北朝鮮人権法(「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」)http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO096.htmlde
で制定され、12月10日から12月16日までの1週間で、最終日の日付は国連総会本会議で「北朝鮮の人権状況」決議が採択された日(2005年12月16日)を記念したものだ。http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken103.html
だが広報がとても弱く、これを知っている人はほとんどいないのではないか。こういうところに政府のやる気のなさを感じてしまう。
(つづく)