脱北者を受け入れる意味2―キューポラのある街

takase222008-12-05

パソコンがウィルスにやられて、ひどい目にあった。次々に新手のウィルスが登場するが、いったい何が面白くてこんなことをするのだろうといつも不思議になる。
さて、「帰国運動」の話。
1950年代遅くになって、北朝鮮在日朝鮮人を「受け入れる」と表明し、朝鮮総連が先頭に立って祖国に帰って社会主義建設に参加しようと、「帰国運動」が大掛かりに展開された。
59年12月14日、北朝鮮へ向かう帰国船が新潟港を離れた。それ以来、中断をはさんで84年まで「帰還事業」は続き、計9万3千人が北朝鮮に渡った。うち、日本人妻が1800人以上、その子どもなどもふくめ日本国籍者は6800人に上る。総連の指導で日本国籍を離れてから出発した人もいるから、実際の日本人の数はもっと多かったとの推測もある。
これだけの規模の人口が、いわゆる自由世界から共産圏に移動したというのは、最初にして最後、唯一無二の出来事だった。これで北朝鮮は韓国との体制間競争で大いに優位にたった。また、北朝鮮内部での50年代後半からの激しい権力闘争において、金日成が権力基盤を確めるのに利用した面もあったという。
60年4月といえば、帰国事業がピークに達していたころだが、韓国では李承晩(イスンマン)政権が学生らの大衆運動で打倒された。もう社会主義北朝鮮による統一も間近かという雰囲気がますます総連の帰国運動を盛り上げた。
北朝鮮への「帰還事業」といえば、我々の年代だとすぐに映画「キューポラのある街」が思い浮かぶ。http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/kyupora.htm
社会の理不尽な仕組みにぶつかりながらも凛々しく生きて行くジュンという貧しい中学3年生が主人公で、それを清純そのものといった雰囲気の吉永小百合が演じた。天使がこの世にいたらこんな姿になったに違いない。小百合ちゃんを液晶テレビのCMでしか知らない若い人がこの映画を観れば、初老にさしかかる世代に「サユリスト」などという熱狂的なファンが今もいる理由が理解できるはずだ。
彼女はこの映画で、ブルーリボン主演女優賞、ミリオンパール女優主演賞、シルバースター新人女優賞を受賞した。
封切が62年。この年、吉永小百合は初めて歌手としてデビュー。「寒い朝」という歌が大ヒットした。私もこの歌が大好きだった。
北風吹きぬく 寒い朝
心ひとつで 暖かくなる
清らかに咲いた 可憐な花を
みどりの髪に かざして今日も ああ

きっと映画を観た人はジュンのイメージとだぶらせてこの歌を聞いたことだろう。よけいなことだが、この歌で「みどりの髪」という表現を初めて知った。
小百合ちゃんはこの年「いつでも夢を」という歌も大ヒットし、レコード大賞に輝いた。国民的大スター吉永小百合が誕生、確立したのが62年だったと言ってもいいだろう。
59年末からの北朝鮮「帰還」がピークに達したのが60年、61年で、世の中の関心が高かったころだ。北朝鮮に渡ることを好意的に描いたこの映画に影響されて、観客の多くは「帰還」を応援したくなっただろうし、北朝鮮行きを決意した在日もいたに違いない。私ももちろん「帰還」はよいことだと思った。
私が映画を観たのはずっと後だが、列車に乗って新潟に向かう在日朝鮮人の幼なじみに、陸橋の上からちぎれるように手を振る小百合ちゃんの姿が印象的だった。このとき、吉永小百合は高校生だったという。その後、大検を受けて早稲田の第二文学部に入学し、売れっ子で忙しいのに、きっちり4年で、しかも次席で卒業したという。えらい!
ネットを見ていたら、こんな話も載っている。
早稲田大学での卒業論文のテーマは「アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』におけるアテネアテナイ)の民主制について」》
タモリと吉永は早稲田大学に在学していた時期が重なっており、学生食堂で吉永が食事しているのを偶然に発見した際、吉永の食べ残しを食べようか迷った末、思いとどまったというエピソードがある》
いつの間にか、吉永小百合論になってしまった。
キューポラのある街」には続編「未成年 続・キューポラのある街」があった。私は観たことがない。続編では日本に残った日本人妻を、主人公ジュンが説得して北朝鮮に渡らせるストーリーになっているという。こんど観てみよう。
(つづく)