筑紫哲也さんの死によせて

takase222008-11-08

筑紫哲也氏が亡くなった。
初めてお会いしたのは、1990年、私がチェルノブイリ原発を取材し、それを「ニュース23」で放送したときだった。「ニュース23」は前年の89年に始まって、ようやく一年たったころだったはずだ。
VTRが終わると、スタジオの筑紫氏が、「チェルノブイリ原発で働く労働者たちには、何がしかの『手当て』が出ています。彼らはそれを『かんおけ代』と呼んでいるそうです」とコメントした。番組の前、筑紫氏はじめスタッフを前に、私が取材の結果を報告したのだが、筑紫氏はその情報の中から「かんおけ代」の話を選んで短くビシッと締めたのだ。
筑紫氏のコメントは本質を鋭くえぐる。
多くのニュースショーが、何人もタレントをスタジオに呼んで、井戸端会議のようなおしゃべりを繰り広げているが、いかがなものか。キャスターは視聴者と同じレベルで話をしてはいけないと思う。実力あるキャスターのきちんとしたコメント、「観て得したなあ」と視聴者に思わせるコメントがほしい。
さすがと思わせるコメントができるキャスターは、筑紫氏だけだった。素晴らしいキャスターであり、ジャーナリストだったと思う。
評論家の三浦小太郎さんから筑紫氏追悼のメールがきて、そのなかで、ベトナム戦争に反対し、統一ベトナムの出現を歓迎した筑紫氏が、難民を出すベトナム社会主義政権を厳しく批判した姿勢を高く評価していた。
それを読んで、当時の私を恥ずかしく思った。私はベトナムに入れ込んでいて、革命の時には多少難民が出るのもしかたがないという立場を取っていたからだ。また、統一ベトナムは幸せな「はず」なのだから、出て行くのは前政権の腐敗分子だろうと思っていた。社会主義幻想にはまっていた。
幻想が崩れるきっかけは、75年サイゴン陥落の2年後、77年に初めてベトナムに行ったときだった。ホーチミンと名前が変わったサイゴンの町を歩いていると、若い男が近づいて、英語で話しかけてくる。その辺でお茶でも飲んでゆっくり話そうかと誘うと、首を横に振った。
スパイがたくさんいます、このまま歩きながら話しましょうと言う。私は男の脅えた様子にショックを受けた。
言論の自由がない、みな外国に逃げたがっている、不満分子と見られれば荒地の「新経済区」に送り込まれる・・・。何より驚いたのは、「今、ベトナムカンボジアと激しい戦争をしている。負傷兵を満載したトラックが国境から次々やってくる」という話だった。紛争の噂は聞いていたが、そこまでとは思っていなかった。これが「新生ベトナム」の現実かと愕然とした。
三浦さんは、筑紫氏を上のように評価したうえで、後年の彼の姿勢には批判的だ。
《中国や北朝鮮の体制の悪に対し時として日本の非を語るために点が甘くなったり、中韓歴史認識の過ちには目を向けなくなったり、何よりも、政治イデオロギーの立場を超えて、一人一人の人間の生命を思う気持ちをうしなわさせて》いったという。そして、それが端的に出たのが拉致問題への消極的対応だったという。
ベトナム難民に対しては進歩派の呪縛から自由だった筑紫氏が、なぜそうなってしまったのか。これは、考えてみるべき重要なテーマだ。