早紀江さんのコスモロジー ヨブ記

 拉致とは実に残酷な犯罪である。親たちはみな心身ともずたずたになる。
 子どもが死亡した場合、親はもちろん悲しみのどん底に突き落とされるだろうが、いつかは心に区切りがつく。しかし、まだ13歳という幼い子どもが突然いなくなり、そのまま時間が経っていく場合、親には逃げ場がない。さらわれたのか、家出なのか、親に言えない悩みでもあったのか・・・。失踪の理由も不明なら、生きているのか死んでいるのかさえ分からない。地獄のような苦しい日々が続くのである。
 早紀江さんは子どものころから、とても真面目な人だったようだ。正義感も強く、いじめっ子がいると、小さな体でつかつかと近づき面と向かって注意したなどの武勇伝もうかがった。曲がったことも悪いこともしてこなかったのに、どうしてこんな悲しみに遭うのかと世を呪ったこともあったそうだ。
 何度も自殺を考えた早紀江さんに、めぐみさんの同級生のお母さんが「ヨブ記」を読むことを勧めて聖書を置いていった。その聖書を、早紀江さんはあるとき何気なくめくってみた。すると、「ヨブ記」のある箇所に目が行った。
 サタンが、神を恐れる敬虔なヨブを試すために、彼の一族としもべを皆殺しにし、多くの家畜を焼き尽くした。大きな災難に直面し神を呪うかと思いきや、彼は神をたたえてこう言ったのだった。
   私は裸で母の胎から出て来た。
   また、裸で私はかしこに帰ろう。
   主は与え、主は取られる。
   主の御名はほむべきかな。
 《私は「主は与え、主は取られる」という言葉に打たれました。人の生も死も必然的に訪れることの意味は日頃から考えていましたが、そこには何かもっと大きなものが係わっているのだと知らされた思いがしたのです。(略)
 こうして私は「詩篇」「ローマ書」「コリント書」「イザヤ書」と、つぎつぎと読み進みました。そこに書かれた言葉の一つ一つが痛みを持った心地よさで胸に浸みていき、やがて自分自身の卑小さを思いしりました。うまく説明できませんが、生まれたままの状態で自分の真面目さを良しとしてきた己のちっぽけさに気づいたのです》(横田早紀江『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』草思社98頁)
 かくて、早紀江さんに転機は訪れた。
 (つづく)