変化する日本の倫理3 

明治以降の近代化のなかで日本人の倫理観は少しづつ変化してきたが、それを大きく変えたのは、1945年の敗戦だった。軍国主義天皇制、家制度などの「重石」がはずされ、突然の解放感のなか、一気に個人主義が広まった。国民の多数はそれを「進歩」であり「善」であるとみなした。
「大事なのは自分だけ」という個人主義は、実際に核家族化が進行し、地域の共同体が機能しなくなる過程によって後押しされ、今では日本の心象風景のベースになっている。だから、自戒を込めて言うのだが、親にいろいろやってもらうのは当たり前、お返しをしなくてもよいという考えにもなるのだろう。
では、子どもというものをどうとらえているのか。
少子化が深刻になっている。これはまずは社会問題であり、経済・社会政策により子どもを安心して産み育てられる環境を作ることで対応すべきものだが、この現象の深層には、個人主義の蔓延があると思う。
「私のしたいことができなくなるので結婚したくない、子どももほしくない」という人が、私の周りにもいる。そこまで極端でなくとも、子どもは一人あるいは二人まで、と考える人はかなり多いはずだ。その理由が「私のやりたいこと」ができなくなるからというのだ。これは、今の個人主義を象徴するものだ
直接的には、「家が狭い」「養えない」などの経済的、物理的理由なのだが、その理由が取り払われたとしても4人、5人子どもが欲しいと思う人は少数派ではないか。
なお私は、結婚しない人、子どもを作らない人を批判しているわけではなくて、「考え方」を問題にしている。また現代日本に生きる私自身もこういう風潮に染まっていることを断っておく。
「私のやりたいこと」を優先する、この考え方をどんどん延長していくと・・・「やりたいことができず、邪魔になったので、子どもを殺してしまいました」という恐ろしいことになる。論理としてはそうなる。
これが、昔の日本に見られた、口減らしとしての嬰児殺しや姥捨てなどと全く別物であることは言うまでもない。
今の若者が、親が子どもを殺すのはいけない、というときには、自分がいつまでも面倒を見てもらう子どもの立場、親に殺される側にあることを前提にしての利害を考えるからではないか。
《なぜ人を殺してはいけないの?》という子どもたちの問いに大人が答えられなくなっているのも、個人主義の蔓延のためなのだが、これはまた別の機会に書こう。日本人の倫理をどうすればよいのか。これを、私のブログで今後取り上げるメインテーマの一つにしたい。