森光子の大東亜共栄圏3

慰問団には、歌手のほか松竹歌劇団、曲芸師、コミックバンドなどがおり、歌も踊りもお笑いもという混成芸能人集団で南洋の島々を回っていた。森光子は女優だが、十代末から歌手としても活躍しており、海軍、陸軍の基地を回って、「朧月夜」、「愛国の花」、「湖畔の宿」などの曲を歌った。各地に長期滞在するから、いろんなものを見る。
「ジャワでは私たちのような慰問団が通るときでも、地元の方たちが土下座して迎えた。いい気持ちはしない。日本人の誰があんな真似をさせたのか。江戸時代の大名行列でもあるまいに。
尊大な日本人のふるまいを目にするのはつらいことだった。ボルネオのバリクパパンでは二十代前半の少尉あたりの若者が家を一軒持って使用人をおき、車を優雅に飛ばしていた。窮乏生活を送る内地の実態とあまりにかけ離れているので、義憤を感じたものだ」(日経12月16日)。
こうした実態では、いくら「大東亜共栄圏」を唱えても現地に受け入れられないだろうことがよく理解できる。
森光子はたぶん政治的には保守だと思う。また、「昭和天皇崩御されたとき、いてもたってもいられなくなり、車で皇居に駆けつけた」と書いているから、皇室を心から慕っていることが分かる。いわゆる体制派の人である。そういう人だからこそ、日本占領下の現実への批判的描写には強い説得力がある。
慰問団は各地で特別待遇を受け、司令官からフランス料理のフルコースをご馳走になったりもした。そして森光子は敵国「アメリカ」にも触れる機会があった。シンガポールで、軍が敵性映画として押収したらしいディズニーの「ファンタジア」とハリウッド映画「風と共に去りぬ」を軍施設の中で見せてもらったのだ。
「言葉がわからないのに、カラー映画の美しさに圧倒されてしまった。鬼畜米英と呼ばれていたアメリカという国が恐ろしいというより、何だか不思議に感じられた。なぜ戦争をしながら、こんな映画がつくれるのだろう・・・」。
陸軍の映画報道班だった監督の小津安二郎や、歌手の藤山一郎などとも会ったりしながら、南洋の旅は続いていく。
「庶民から見た」という触れ込みの戦争史、現代史はすでにいろいろ出ている。
一方、森光子は決して「庶民」ではない。軍の偉いさんの生態を観察し、戦地の兵隊さんたちと触れ合い、慰安婦と同じ施設で寝泊りしたりと、むしろ、庶民には経験できないものを見ている点が、非常に貴重で面白い。
森光子の手記は、戦争を描こうとしたものではない。激動の昭和史を明るくけなげに生き抜いた女性の一代記である。だが、その裏には、あの戦争は間違いだったというメッセージがひたひたと流れている。
(終わり)