誰が虐殺を見過ごしたのか2

1975年4月、首都プノンペンに入城したポルポト派は、全住民を農村に強制移動させ全土をテロ支配した。ポルポト派は「民主カンプチア」という国名を名乗り、その名目上のトップのシハヌーク殿下は、文字通りのゴーストタウンと化した首都で王宮に幽閉された。役所、学校、病院などあらゆる文化施設を閉鎖し、家族を解体し、年齢、性別のグループごとに集団生活を強いた。旧政権の軍警察関係者はもちろん、医師、教師、エンジニアなどのインテリは処刑された。さらに、乏しい食糧で長時間の労働を強制され、病気になっても医療を受けられない状況のなかで、数多くの人々が命を落とした。4年足らずの統治期間に死亡した犠牲者の数は、今もって確定していないが、エール大学ベン・キアナン教授のプロジェクトチームの調査を私は最も信頼している。それによると170万人で、人口の21%に上る。日本でいえば2千万人以上にあたる。
79年1月、ベトナム軍はプノンペンを攻略し、クメール・ルージュ体制は崩壊、親ベトナムヘン・サムリン政権「カンプチア人民共和国」を樹立した。シハヌークは北京に保護を求め、ポルポト派はタイ国境地帯へと敗走した。
すぐあとの2月、中越戦争が起こる。カンボジア侵攻への「懲罰」だとして中国がベトナムに侵攻、攻撃したのである。ここから問題は一気に国際化していく。
一方、ポルポト派はヘン・サムリン政権に対して、タイ国境からゲリラ戦争を始めた。中国はポルポト派を強力に支援し、反ベトナムの立場のタイも便宜をはかった。
重要な立場にあったのは、シハヌークだ。彼はポルポト派を心から憎んでいた。私がシハヌークにインタビューしたときも、彼はポルポト派を激しく非難した。肉親だけでも子ども5人と孫14人をポルポト派に殺されているのだから当然だ。
シハヌークは、国連でベトナム非難の演説をするためアメリカに送られたが、その際、中国とポルポト派から逃れるべく、フランスに亡命しようとする。しかし、それは拒否された。ポルポト派だけでは「民主カンプチア」は国際的に存続できない。そこで、3派連合政府という構想が登場した。
82年、ポルポト派、シハヌーク派、ソンサン派の3派が「連合政府」を作り、カンボジアをめぐって、国際社会は2分される。共産主義ポルポト派、王制派のシハヌーク派、70年にシハヌークに反旗を翻した反共共和派の流れをくむソンサン派は互いに憎悪し合う間柄だ。アメリカ、中国という大国の圧力のもとで「強制結婚」させられたのだ。(参考:熊岡路矢『カンボジア最前線』岩波新書
ソ連・東欧=ベトナムヘン・サムリン政権に対抗する3派=アメリカ・西欧・中国の図式ができた。後者の勢力が圧倒的に強く、国連の議席は、実効支配するヘン・サムリン政権ではなく、「民主カンプチア」がそのまま握り続けた。ポルポト派時代の国旗がそのまま国連本部に翻っていたのだ。
これは内戦を泥沼化させ、多くの人命を奪うことになる。
アメリカが、ポルポト派が国連でカンボジア代表の椅子を占めることをもはや支持しないと政策転換するのは、90年も半ばになってのことだった。
(続く)