リビアの現代史は波乱万丈だ。
1969年までは親米王政の国で、米英が巨大な軍事基地を持っていた。リビア革命(クーデター)でわずか27歳のカダフィが権力を握ると、米英の基地を撤去させ、74年には石油産業を国有化するという革命を断行した。
なお、革命時、カダフィは少佐で、そのあと(たぶん自分で)大佐となり、そのまま現在にいたる。大佐がトップの位というわけではなく、軍にはその上の位の将軍もいると聞く。
革命直後の70年代前半のリビアの一人当たりGDPは、日本とほぼ肩を並べていた。埋蔵量世界9位の石油があり、もともと豊かな国なのである。
カダフィ大佐は、アメリカ、イスラエルへの闘争を呼号し、世界各地のゲリラを応援。日本とも無関係ではなく、75年に日本赤軍が起こした「クアラルンプール事件」では日航機がリビアのトリポリに着陸して、超法規的措置で釈放されたメンバーらが保護されている。リビアは日本赤軍の潜伏先の一つで、当然、支援もしてきたはずだ。
リビア政府が直接に手を下したテロと認定されているのは以下の3つだ。
①1986年4月、西独ベルリンのディスコで爆弾テロ(米兵2人とトルコ人女性1人が死亡、230人−うち169人がアメリカ人−負傷)
②1988年12月、ロンドンからニューヨークに向かうパンナム機を爆破(墜落したイギリスのロッカビー村住民11人を含む270人が死亡)
③1989年、パリ行きのフランスUTA機をチャドのヌジャメナを離陸後に爆破(170人死亡)
アメリカは1979年にリビアをテロ支援国家に指定していた。また、その前年から武器の輸出を禁止し、85年には石油製品を輸入禁止し、86年には対リビア貿易を全面禁止するなどの経済制裁を課している。86年のディスコ爆破直後には、米軍がリビアを爆撃。カダフィ大佐殺害を狙った攻撃で、大佐の養女が死亡した。このころ、戦争一歩手前まで緊張は高まっていた。
パンナム機爆破事件のリビア人容疑者2人を引き渡さないことを理由に、国連安保理は92年3月、制裁を決議した。西欧諸国はじめ主要国からの投資は途絶え、貿易は冷え込んだ。
そのリビアの最大の転機は2003年だったとされる。
その年8月、パンナム機爆破事件の遺族に、一人あたり12億円の補償金支払いを約束した。さらに12月19日、核をはじめ大量破壊兵器計画を放棄すると宣言、年末にはIAEAの査察が始まっている。リビアの新政策がいかに徹底したものであったかについては、原水禁のサイトに詳しい。http://www.gensuikin.org/nw/libya.htm
翌04年は主要国首脳の「トリポリ詣で」の年となった。ブレア首相(英)、シラク大統領(仏)、シュレーダー首相(独)、マーティン首相(カナダ)らが相次いでリビアを訪問、イタリアのベルルスコーニ首相にいたってはこの年だけで3回も訪問している。カダフィ大佐も4月、EUを訪れて、時代の変化を印象付けた。
中国は、はやくも02年4月に江沢民主席がリビアを訪問し、投資、石油資源、鉄道建設での協力文書に調印している。日本はといえば、首相はもちろん外相さえもリビアを訪問していないが、こんなのはG8では日本とアメリカだけ。「バスに乗り遅れるな」というフレーズはこういうときに使いたい。
リビアは非常に重要で、日本が付き合っておくべき国である。