雨も降らないと(続)

きのうの日記がことば足らずだったので補足しよう。

長谷川園長は、乳がんや大腸がんなどの大病で入退院を繰り返してきた方だ。
そんな体をおして、毎日朝夕、雨の中を門で園児の送り迎えに立ち続けるのは、心身ともに大変な負担のはずだ。
父兄の多くはその事情を知っているから、長谷川先生を見ると何か言葉をかけたくなってしまう。
園児のお母さんが、雨でほんとにいやになりますね、と挨拶したのも、感謝といたわりの気持ちからだったろう。それに対する「雨も降らないと困るのよねえ」だったのである。
感じるところがあったその母親が、園長の口ぶりそっくりに他の父兄に話したことから、私もこのエピソードを知ることになった。

では、園長はどんな意味をその言葉に込めたのだろうか。
私たちは都会の人間なので雨はいやだけれど、田舎のお百姓さんたちのように雨が降らないと困る人もいます、ということなのか。つまり視点を変えて見ましょうということなのか。おそらく違う。
自分の生を一日一日確かめるようにして生きていた園長である。毎日を深い感謝の気持ちで生きていたと思う。そして、この世に起きるあらゆることを、あるがままに受け入れる心境だったのではないか。
ほとんどの人は「自分の都合」という狭い価値観で生きている。健康は良いことで風邪をひくのは嫌なことだ。でも、風邪のおかげで嫌いな運動会に出なくてすむ子どもは一転「ラッキー」となる。そのときどきの「都合」で判断される。
「幸せ」とは、自分にとって都合のよいことに恵まれることだと私は理解している。
ところが、世の中は私の都合に合わせてできているわけではない。思い通りにならないことがでてくるのは当たり前だ。だから不幸は必ずやってくる。これはもう「法則」と言っていい。そして人生の最後に、自分の都合にとって最悪のイベントが、まさに法則どおりに訪れる。最大の不幸としての「死」である。

死を恐れずに受け入れることができることは、「覚り」の重要なテーマだ。
「雨も降らないと困るのよねえ」を反芻しながら、どしゃ降りのなか自転車のペダルをこぐ。
すると私は、狭い自分の都合(くたびれて帰ってきたらびしょぬれかよ、なんて運が悪いんだ、こんちくしょう!)から離れることができる。それは、思い通りにならない現実をそのまま受け入れる「修行」であった。