安明進の「転落」その3

「転落」した証言者、安明進。彼の証言は間違っていたのか。
フジテレビのニュース番組で木村太郎キャスターが、「こうなると、これまでの証言が正しかったのか、見直す必要がありますね」とコメントしていた。過去にさかのぼって証言の信憑性を疑われる事態を招いているのである。
ブログではもっと厳しいこんな記事もあった。
朝鮮日報には、「安容疑者は計36回にわたり、自ら覚せい剤を常習的に使用した容疑も持たれている。」という情報も掲載されています。すべての証言が嘘だとは言いませんが、覚せい剤常用者の証言を根拠にするのは相当な無理があります。覚せい剤の中毒症状には妄想や幻覚もあるからです。》http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070711/p1

私は安明進のプライベートな相談にも乗るなど個人的にも信頼関係があり、彼からは「ヒョン」と呼ばれていた。韓国の男性は親しい同性の年長者を「ヒョン」(兄貴、兄さん)と呼ぶ。彼の人柄をも知る私の結論は、「全体として彼の証言は信頼できるし、少なくとも初期の安明進証言は非常に確かなものだ」というものである。

1997年2月の安明進のめぐみさん目撃証言を、私は取材者として確度の高い情報だと判断して報道したのだが、北朝鮮情報はいつも「ウラ」が取れない。不安がなかったといえば嘘になる。だが後に、彼は確実にめぐんみさんを見ていたのだなと確信させる材料が出てきた。そのひとつは、めぐみさんに「えくぼ」があったと安明進が言ったことだ。
 安明進は、著書『拉致工作員』(徳間書店)のなかでこう書いている。
 「彼女が笑うと深く窪んだえくぼは、見る人に心優しい印象を与えていた」(135頁)。
 出版1ヶ月前にゲラで読んでいた私は、「えくぼ」という言葉にひっかかった。めぐみさんの事件に関する新聞や雑誌の記事すべてを読み直してみたが、「えくぼ」の記述はない。
すぐに横田滋さんに電話を入れた。
 めぐみさんには「えくぼ」があったんですかと聞くと、滋さんは当然のように「ありましたよ」と答えた。しかし、警察にもマスコミにも話したことはなかったという。滋さんは「えくぼ」家系で、娘に「えくぼ」があることを特徴として意識することはなかったという。口もとを耳のほうに大きく寄せた時に限って現れる種類の「えくぼ」で普段は見えないが、アルバムの中に何枚か「えくぼ」の写真を見つけることができた。
 安明進が、「えくぼ」の存在をあらかじめ知って作り話をすることは不可能だったのである。
     
彼が覚醒剤に手を出したのは、早くて2005年であり、彼の主要な証言はそれより前だから、「中毒作用」はとりあえず問題にしなくてよい。ただ、ある時点から安明進は何でも答えてくれるが、あいまいな内容も含まれているという評判が立った。
問題は「覚醒剤」ではなく、「お金」、つまり、安明進が取材謝礼を主要な収入源とするようになったことだった。「証言」がメシの種になってしまった。結果、インタビューでは、拉致以外にも北朝鮮の核ミサイル問題、政治犯収容所、経済危機、はては「小泉さんをどう思いますか?」などという質問にまで答えるようになる。お金のためには、詳しくないテーマにも応じるし、取材者に迎合した答えをしがちになる。伝聞情報があたかも安明進自身の証言として報じられることもあった。

ただ、問題は取材者の方にもあった。
代表例が、「めぐみさんは、ロイヤルファミリーの子どもの家庭教師をしている」という安明進「証言」である。この情報には私も驚き、さっそく安明進にインタビューした。すると、北朝鮮で高い地位にあったある人物が最近脱北してきて韓国の情報機関にこの情報を伝え、安明進は情報機関からそれを聞いたというのである。安明進自身が得た情報ではなく、又聞きである。情報の信頼度が低いので、私たちはこの「家庭教師」の話を取り上げないことに決め、一度も報じていない。「家庭教師」の話が安明進の証言として報じられたとすれば、むしろ取材者に責任があるだろう。安明進に情報の出所を尋ねれば正直に答えたはずだからである。

最近の脱北者の証言には、いいかげんなものがたくさん混じっている。明らかに取材謝礼目当ての証言者も多い。「日本人拉致被害者を知っている」などという重大証言が、完全な嘘だったという「事件」まで起きている。こうした事態を招いた責任の一端は、私たちメディアにある。安明進の「転落」を見るにつけ、私たちが取材手法や謝礼をふくめ汲み取るべき教訓は多い。社会に誤った情報を流すだけでなく、取材対象者の人生をも変えてしまうかもしれないのだから。