被災地の現実はやがて東京の姿

山内明美さんの文章続き。

《こうした被災地での悲劇を聞くたびに、人間が立ち上がれない復興とは何だろうと思う。復興途上の死ほど、絶望的な出来事はない。そうした死が、地域社会に投げかける問いは重い。なにがほんとうの復興なのか、冷静になって考える時期だと思う。
いま、被災地は、高速道路や巨大防潮堤など、コンクリート公共事業が真っ盛りだ。だが、この復興事業後の冷え込みはかなり厳しいものになるだろう。震災前1万7666人だった南三陸町の人口は、今年2月時点で、すでに1万4620人になった。住民票を移さないままの「被災出稼ぎ」者が多いことから、実質人口は1万2千人程度との話もある。
一昨年の南三陸町の税収(町税)は4億円台だった。震災前は12億円台だったが、実に6割減である。当面、それもかなり長い年月、被災した大多数の町民から満足な税収は得られそうにない。自治体の運営それ自体が貧している。
あえて申し上げるが、この復興計画は日本の「現状」に追いついていない。
被災地には、縮小化する日本の先行課題が噴き出しているのだ。人口も財政も極度に縮小化した地域や社会状況であるにもかかわらず、現実に復旧復興事業でつくられている町は、高速道路の新設、高台団地の造成と津波浸水地域の開発事業といった、まるで1970年代の経済成長期並みの拡大路線である。身の丈を大きく越えた町を、どうやって維持していくのだろう。
これからの日本は、あの「明るいナショナル」然とした右肩上がりの日本ではなくなる。東京に住まう人たちが他人事だと思うだろうか。被災地の現実は、やがて東京の姿でもある。》

「明るいナショナル」という言葉が出てくるが、山内さんは冒頭にこう書いている。

《かつて、明るい電気が家族を照らすことが、経済成長期の日本人のアイデンティティだった》。
東京が、3年前、節電時期で暗かったのが、今はイルミネーションも戻り、オリンピックに向けて、「このにぎやかさ」は増していくだろうと書き、東京と被災地のギャップの大きさを指摘している。
将来の日本全体にかかわる問題提起である