元大使が語るアフガニスタンの「反近代」3

 先週土曜日、近所で中村哲医師の映画『荒野に希望の灯をともす』の上映会があり、アフタートークでお話した。

くにたち映画館(国立駅北口のアグレアブル・ミュゼ)にて


 こんな役目はおこがましいのだが、アフガニスタンの中村さんのプロジェクト現場を取材したことなどを報告した。

 中村さんの映画は各地で自主上映が続いており、どこもすぐに定員いっぱいになるという。とくに福島、広島、沖縄での観客動員数が多いと聞き、なるほどと思った。

 ペシャワール会の会員と支援者は、中村さんが亡くなった2019年12月時点での1万6千人が、現在では1万人増えて2万6千人になっているという。中村さんとその生き方を知りたい、そこから学びたいという人がますます増えている。これは一つの社会現象と言っていいだろう。
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 今月7日、友人のイタリア人ジャーナリスト、ピオ・デミリア(Pio d’Emilia)さんが病気で亡くなった。
https://www.facebook.com/piodem

 

特派員協会でゴーン元日産社長に質問するピオさん

 長く日本をベースにしてアジア報道に携わり、日本外国特派員協会の副会長としても活躍した。数々のユニークな取材で知られた名物記者だった。

 東日本大震災直後の原発事故の最中、Youtube南相馬市の窮状を訴えた桜井勝延市長のところに、最初に取材に駆けつけたのがピオさんだったという。日本のマスコミが記者の安全を優先して取材を控えるという歴史的汚点をつけた時である。

takase.hatenablog.jp


 お互いの取材を助け合ったり、飲みながら時事問題で意見交換したりして親しくなっていったが、実に率直でユーモアのある“いい奴”だった。享年68。

 私が最後に会ったのは、2019年10月に香港のデモを取材に行くといって当時の「ジン・ネット」のオフィスに来たピオさんに、催涙ガスよけのマスクとゴーグルを“餞別”として渡したときだった。

 21年の年末にはGOTOトラベルの“闇”を取材していると知らせてきたが、直後に私が会社をたたむことになってドタバタして以来、連絡をしていなかった。

 おもしろいジャーナリストがまた一人いなくなってとても寂しい。
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 元駐アフガニスタン日本大使の高橋博史氏は、アフガニスタンは部族社会の因習が残る独特の社会だと説く。だが、その秩序は内戦の無秩序の中で破壊されていく。

 1989年、ソ連軍が撤退すると政府とムジャヒディーン(イスラム戦士)との戦いとなり、92年4月、ムジャヒディーン勢力がカブールに政権を樹立した。アフガニスタンはここから無政府状態へと陥っていった。。以下、それを当時現場で見た高橋氏の『破綻の戦略』より引用。

「ムジャヒディーン各派の権力争いはアフガニスタン全土に拡大し、アフガン情勢は混迷を深めていた。(略)

 全国各地でムジャヒディーン各派の野戦指揮官たちが陣取り合戦を繰り広げていた。アフガン国内の道路は、それぞれの地域を根城にする各派の野戦指揮官がコントロールしていた。野戦指揮官たちは勝手に道路を封鎖して、鎖や綱を渡しただけの簡易な私的関所を設置した。」
ムジャヒディーン兵士らは「通行する人や車に銃口を突きつけ、通行料として金品を巻き上げていた。なかには麻薬でも吸っているのか、マシンガンの引き金に指をかけたまま、狂ったように怒鳴り出すムジャヒディーンもいた」

 首都カブールの「市内はいつどこから銃弾や迫撃砲弾が飛んでくるかわからない、戦火の真っただ中にあった。

 その戦火の中、老婆と女子供たちが、家財道具一切を積み込んだ荷車を押していた。必死に逃げ惑う彼らが関所を通り過ぎようとすると、ムジャヒディーンたちは無慈悲にも彼らを銃で脅し、荷車にある金目のものを強奪した。なかには女子供を差し出せと脅迫しているムジャヒディーン兵士もいた。市民に対する略奪、暴行は日常茶飯事だった。身代金目当ての誘拐、強盗、殺人も毎日のように頻発していた。」

 南部のアフガニスタン第二の都市カンダハールにも悲惨な状況は波及した。

 「カンダハールは昔から男色が盛んなところであった。略奪、暴行を働く無軌道な野戦指揮官たちは、道行く少年を誘拐し、強姦した。その道徳的腐敗と退廃に、アフガン人はソドムの世界が現出したと嘆いた。飢えた子供に食事を与えるために、その母は身売りした。(略)

 飢えた人びとは墓場を荒らして人肉をむさぼった。埋葬されたばかりの遺体を掘り起こし、その遺体から油を取って売買した。人骨を秤にかけて飼料として売買する人もいた。現地に住む私の友人は『アフガニスタンに暗黒の時代が到来した』と、顔を覆って嗚咽した。最悪の事態がアフガン社会を覆っていた」

人骨売買を報じる新聞の写真。パキスタンのフロンティアポスト96年12月11日

 そこに登場したのが、タリバンだった。

「その内戦に終止符が打たれるような出来事がカンダハール市郊外で発生した。1994年11月3日のことである。イスラーム神学生による武装蜂起は、瞬く間にカンダハール市を制圧した。その一カ月後の12月11日にはアフガン南部を支配下に収めた。あの暗黒の時代が終わりを告げたのである。悪逆非道なムジャヒディーン野戦指揮官たちは殲滅された。この事実は民衆の目に奇跡と映った。タリバーンの出現である」

 高橋氏も、”地獄“の混乱を終わらせたタリバンが国民の強く支持されていたとみている。

 タリバンは伝統的な慣習法、部族社会の掟にもとづいて秩序を回復していった。強姦には死刑、盗みには手の切断などの刑罰や、女性は全身を覆うブルカを着るなどの習慣を厳しく守らせることになったが、これは農村の伝統だったから、圧倒的多数の国民には特段新しいものではない。戦乱を終わらせ、秩序を回復してほしいという民衆の思いが、タリバンの台頭へとつながった。

 第一次タリバン政権が米国の侵略で崩壊して20年たった2021年、タリバンはふたたび部族の慣習法で社会の秩序を回復した。

 アフガニスタン国民が欧米から見れば「野蛮な」“反近代”を受け入れているのには理由があったのだ。

元大使が語るアフガニスタンの「反近代」2

 先週土曜の11日、中央線西国分寺駅前のいずみホールで、映画『医師中村哲の仕事・働くということ』の上映会があった。

 この映画は、「ワーカーズコープ」(日本労働者協同組合)が協同労働法成立記念として日本電波ニュース社に依頼し、一昨年製作されたもので、中村さんが「働く」ということをどう捉えていたかに焦点を当てている。

 行ってみると入場受付には長い列ができていて、私はキャンセル待ち11番。なんとか会場に入れたが、定員370席が満席だった。

11日朝10時からの映画上映会でいずみホールは満席になった

 あまりメジャーではない映画にもかかわらず、これだけの人が観に来るとは。中村哲医師に学ぶ、そこから生きるヒントを得る、いわば中村哲“再発見”のうねりが続いているように思われる。これは一種の社会現象と言っていいだろう。

 私はすでにこの映画を観ていたが、アフタートークに出る、中村さんを20年以上にわたって取材してきた谷津健二さんを目当てに行ったのだった。谷津さんは、私の日本電波ニュース社時代の後輩で、トークのあと一緒に昼食をとって話をした。

 話がビクトール・フランクルに及ぶと、谷津さんは、アフガニスタンの中村さんの書棚にフランクルの本が何冊もあったと教えてくれた。激務のなか、どんな思いでフランクルを読んでいたのか。

 中村さんのフランクルとの出会いは、はやくも高校時代だったようだ。

 当時、中村さんは“強迫神経症”に悩まされ、一時ノイローゼ状態になったという。

「ひととうまく話せない。話そうとすると顔面が紅潮し、手や足が震え出す。極端な話、駅の改札口で切符を渡すときでさえ『手が震えるのでは』と不安になって、動作がぎこちなくなる。とくに同年代の女性を前にすると、もう、だめでした」(中村)

 「自分はどこかおかしいんじゃないか」と思い悩むなかで、フランクルを読んだようだ。たしかにフランクルには「神経症」のタイトルのついた著作もある。“教養”としてではなく、自らの深刻な苦境を打開しようという問題意識で読んだのだろう。この影響で、中村さん自ら精神科医をめざしたのかもしれない。(丸山直樹『ドクター・サーブ』P273~286参照)

 以上、本ブログ「中村哲医師とフランクル」への補足でした。
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 アフガニスタンの人びとが近代的価値観を受け入れないのは、単に「ウルトラ保守主義で凝り固まった無知な連中」だからではなく、部族社会の規範、掟の根幹に、ある“構造”が存在するからだ。元駐アフガニスタン大使の高橋博史氏によれば―

 アフガニスタンの主要民族、パシュトゥン人の慣習法、「パシュトゥンワリー」に「ノムース」という言葉がある。翻訳すると「名誉」、「誇り」に近いが、非常に活用範囲が広いという。反対の言葉が「ベ・ノムース」で、ノムースを有していないという意味になる。

 とくに相手の家族や一族の女性成員に関する事柄に触れることは、相手の「ノムース」を汚したこととされる。
 例えば、「ご家族によろしく」、「奥様によろしくお伝えください」などと挨拶すれば、相手の「ノムース」は汚され、相手は恥辱をすすぐ必要が生じる。恥辱をすすがなければ「ベ・ノムース」な最低の人間であるとレッテルを貼られる事態になる。

 タリバンにとっては、教育の問題に限らず、自分たちの(アフガニスタンの)婦女子について、よそ者である国連や欧米諸国がうんぬんすること自体、自分たちの「ノムース」が汚されることなので憤激した。これをそのまま放置すれば「ベ・ノムース」の汚名を着せられてしまう。そこで恥辱をすすぐため、国際社会に向けて“反撃”に出ることになる。

 国際社会は、婦女子に教育を受けさせないタリバンを、女性の人権を無視した頑迷で無知な人びとであると非難する。しかし、タリバンは、婦女子教育が是か非かを問題にしているのではなく、自分たちの「ノムース」が汚されることに憤っていたのだ。つまり議論がまったくかみ合っていないのである。(P155-156)

 なるほど、そうだったのか。

フットサルの観客席。女性は独りもいない。(筆者撮影)

 高橋氏は一つのエピソードを記している。

 ムジャヒディンが対ソ戦を戦っていたとき、日本政府は戦傷者治療プロジェクトを支援していた。近隣諸国では治療が困難な戦傷者を、日本で治療する国連のプロジェクトで、中には空爆による女性の戦傷者もいた。日本政府は彼女たちの治療のために、6カ月間の査証を発給することにした。ところが、希望者は一人もいなかった

 女性だけを外国に送って治療させることは、アフガニスタンの男性にとって「ノムース」を汚されることになるからだ。

 そこで、国連機関は、家族の男性成員が付添い人として同行する方法を考え出した。 

 それによって、その女性の家族以外の男性との接触をコントロールし、「ノムース」が汚されないようにするのだ。その結果、希望者が出てきて、プロジェクトの実施が可能になったのである。

 我々なら、女子への付添いは母親や姉妹など女手の方が良さそうに思うのだが、思考回路がまったく違うのである。
 これはもう、良いとか悪いとかではなく、慣習法、掟として存在する事実を認めるしかない。

(つづく)

元大使が語るアフガニスタンの「反近代」

 去年のきょう、玄関先に、ふきのとうを発見したと日記に書いてあった。今年はどうかなと見ると、あった!たった一つだが、いとおしい。春近し。

ふきのとう

 お知らせです。
高世仁のニュース・パンフォーカスNo.33「アフガニスタン・リポート② “女性の権利”をめぐるタリバンと国際社会の緊張」】を公開しました。

 女性の権利もたしかに大事だが、これが政治問題化して、タリバン政権のいっそうの孤立化を招き、飢餓線上の人々がさらに苦しむことを危惧します。

www.tsunagi-media.jp

 先日、NHK『国際報道』で、タリバン政権による女性の権利の制限が強化されたことを伝えていた。

 去年12月、タリバン政権は、女性が大学で学ぶことを禁止した。(この問題については12月の本ブログで書いている)

takase.hatenablog.jp

 タリバン政権はさらに、女性がNGOで働くことも禁止した。

 政府は「イスラム教徒の女性が髪を覆うためのヒジャブNGO職員が適切に身につけていなかったからだ」とその理由を説明している

バヤットさん(NHK国際報道より)

 テレビの女性キャスターとして活躍していたバヤートさんは、2021年夏のタリバン復権のあと、キャスターの仕事ができなくなり、NGOで働いていたが、今回の措置で、仕事を失った。自分の暮らしも追い詰められているが、困っている女性たちへの支援がストップすることを懸念している。

 男女の区別に厳しいアフガニスタンでは、女性のケアは女性スタッフしかできないため、多くのNGOが活動停止に追い込まれているという。

 東部の町、ジャララバードの医学部で学ぶ女子学生たちは、「タリバンから“家に帰らないと殴る”と脅された」。すると、男子学生たちも講義をボイコットし、連帯して抗議してくれたという。女医がいなければ女性患者を診ることができないので、絶対に必要な専門職である。

大学から締め出されても自主的に勉強を続ける女子学生たち(NHK国際報道)

 大学教育禁止もNGO勤務禁止も、やったら社会が混乱するだけなのに、なぜこんな措置が打ち出されたのか。国際社会との対立が高じることによって、保守強硬派を中心に、どんどん強硬な措置に走っているのではないかと思われる。

 タリバンは、女性を守るために、ヒジャブは、家族以外の男性の前では、目以外を覆ってかぶることを求めている。

 しかし、首都カブールの街中を歩く女性たちの中には、顔を出してヒジャブをつけている人も多い。WFPの食糧支援活動を取材したとき、女性スタッフで目以外を覆うかぶり方の人はいなかった。NGOスタッフともなると“近代化”された女性が多く、タリバンの指示を時代遅れと思うのではないか。

 しかしタリバンは、“乱れた”かぶり方を放置したままだと、欧米の批判に屈したことになり、統治の正統性にかかわると考えたようだ。

あくまで我が国のルールを守れと主張するタリバンNHK国際報道)

 両者が互いにどんどん強硬な応対をする負のスパイラルに入っているのではないか。

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 タリバンの女性に関する政策のベースにある考え方を理解することが必要だなと思っていたところ、高橋博史『破綻の戦略~私のアフガニスタン現代史』白水社)を読む機会があった。高橋氏はカブール大学留学を経て、外務省のアフガニスタン専門家として勤務し、駐アフガニスタン大使もつとめた。ムジャヒディン各派やタリバン幹部にも知己をもち、非常に深く広い見識がある。

 この本に披露されている、いくつか興味深いエピソードを紹介したい。

 911同時多発テロのあと、米国がアフガニスタンに侵攻。タリバン政権は倒れ、新たにできたアフガニスタン政府に対し、日本は公務員人材育成プログラムを実施した。アフガニスタンの公務員を日本に留学させ、2年間で修士号を取得させるというもの。

 高橋氏は、留学を終えて以前の職場「女性省」に職場復帰した女性に会った。帰国後、課長に抜擢されたと喜ぶ彼女。父親は小さな日曜雑貨店を営んでいるという。

 高橋さんは彼女に、「さぞかし、ご両親はあなたを誇りに思っているでしょうね。とくにあなたのお父さんは」と言った。

 彼女は一瞬、顔を曇らせ「父は私に対し、日本に留学して異教徒になりおって、一家の恥さらしだ、と怒鳴ります」と言った。

 その理由は、彼女によれば、お父さんは、「私たちの考える近代の価値観は、神の教えに反していると考えているからだ」という。

 高橋氏は、アフガニスタンに住む多くの人々は人権、男女同権といった近代の価値観を受け入れず、頑固に否定するが、それは部族社会の規範が優先するからだと解釈する。

 「私はアフガニスタンに生活して、時折、中世の世界にいるのではないかと錯覚を起こす経験をしました。(略)

 非命に斃(たお)れた友人の息子の消息を尋ねた際、数十年過ぎた今でも、友人の息子は父の仇を討つため、その相手を探すことを諦めず、仇討ちの機会が訪れるのを待っていると聞きました。血讐という近代の価値を真っ向から否定する世界アフガニスタンであると言えます。」(P231-232)

 その部族社会の規範、掟の中核にあるのが「ノムース」というものだという。

 死を賭けるほど重要な守るべき「ノムース」とは、いったい何か?
(つづく)

中村哲医師とフランクル7

 白樺派の作家、武者小路実篤(さねあつ)の「新しき村が、「村民」が3人まで減って、大きな転機を迎えているという。「新しき村」って、まだあったのか。

新しき村」の入り口。埼玉県公式チャンネル「サイタマどうが」より

 50代以下は知らない人が多いと思うが、「新しき村」とは、近代的な個を尊重しながら、自然と親しみ共に生きていくという実篤の理念のもとに1918年に開かれた農業共同体。理想の共同体をつくる運動の草分けのような存在だった。記事によれば―

朝日新聞13日夕刊1面

「埼玉県毛呂山町の本拠地の面積は10ヘクタール。村で暮らす『村内会員』(3人)と、会費を支払って村を支える「村外会員」(約160人)がいる。村内会員は生活費の負担がなく、毎月3万5千円の支給を受けられる。」「現在、40~70代の男性3人が暮らし、協力しながら無農薬で米や茶を栽培している。」

 60,70年代には若者の入村や出産が相次ぎ、幼稚園もできて、人口は最盛期で60人を超えたこともあったが、その後は高齢化と人口減少が進んで、開村から100年以上たった今、存亡の危機にあるという。そこで、再生に向けて新たなチャレンジが始まったという話だ。

 たまたま実篤の詩を読んでいた。

 平和   武者小路実篤

峠の上から
人々の働いているのを見ると
平和そのものゝやうだ
麦をかつてゐる者
田植えをしている者
馬で畑を耕してゐる者
仔馬は母親の廻りをとびはねてゐる
それを太陽は慈悲深く
しかし厳かに照らしてゐる
平和そのもののやうだ
平和の神は太陽と共に
この世を照らしてゐるのだが
人々はまだそれを受入れることが
出来ないのではないか。
神は人々と共に働いてゐるのだが
人々はそれに気づかないのではないか。

 

 あまりの単純明快さに反発する天の邪鬼な気持ちさえ頭をもたげるが、しかし、今の爭いごとばかりの世相をみると、そうだよなあ、と頷かざるをえない。

 平和の神が「太陽と共にこの世を照らしてゐる」というイメージには、人と人、人と自然が共生するのを「摂理」とみる中村哲医師の思想に通じるものがあると思う。真理は単純なものの中にあるのか。
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 ビクトール・フランクルは、人生の問いは、一般的にではなく、具体的に、そのとき、その場で問われてくるという。

 中村哲医師の足跡を辿っていくと、医師として判断を迫られる状況の厳しさに圧倒される。

 中村さんは、ある講演で、「95%の医療をしたら100円かかる、90%なら20円で済む、という時に90%でできるだけ多くの人を治療するほうを選ぶ」と語っている。

 さらに―
「病人自身だけでなく、周りの家族にとってもなるべく不幸にならないようにという配慮をします。植物状態になって家族に負担がかかるだろうという場合はある程度恐ろしい判断をしなくてはならないこともある。家族に『どうしますか』というのは残酷な問いです」(SWITCH Jan 2002)

 1994年3月、医者を見たこともない人がたくさんいるような、アフガニスタンの奥地ヌーリスタンの診療所開設のため、中村さんは偵察診療隊を率いて、ある渓谷に滞在していた。ソ連軍の撤退後、軍閥同士の抗争で治安が最悪だったころのことである。

 夕刻、2人の重症患者が運ばれてきた。空き家のはずのきこり小屋に入ったところ、入り口に仕掛けられていた地雷が爆発して2人の足を直撃。2人の患者は山道を9時間かけて運ばれてきて、息も絶えだえだった。

 一人は、両下肢をふくらはぎから吹き飛ばされ、右の太腿にもひどい傷があった。もう一人の方は、右下肢のみ足関節から吹き飛ばされ、脛骨の関節面が崩れた肉塊から突き出していた。

「とりあえずは救急処置を施してペシャワールへ送り、きちんとした切断手術を病院で行って、義足で歩行させるのが筋」だった。

 しかし、中村さんは両下肢に負傷した患者の方は「初めから救命処置を考えなかった。儀式的に点滴をして安心させ、中途で死亡することを承知で下手の町に搬送させた。下手の町まで五時間は優にかかるので、生きて着くまいと思った。おそらく日本では想像がつくまいが、険しい山岳地帯の生活は厳しく、車椅子生活など考えられないからである。もし助命したとなれば、家族はこれを放置しない。そのために全財産をはたいて、みなが破滅してしまうのは分かりきっている。」

 そして、片足負傷の者だけを、まともな設備も輸血の準備もなしの状況で、懐中電灯を頼りに2時間の救命手術を行った。手術用のノコがなかったので、配管工事用のノコにアルコールをかけて焼いて消毒し、それで脛骨を切断した。

 その後、ペシャワールPMS病院で再手術を行って、義足で歩けるようになった。簡単な作業くらいは出来るようになるだろう。

 中村さんは恐ろしい判断を下している。

 「私が下した判断が普遍的な意味で、正当であったか否かは分からない。日本であれば告発されたことであろう。それでも現地では助けられた方が『幸運』なのであって、『神に目をかけられた』生命を喜ぶのである。(略)死が身近にあるだけ生も輝きを増す。これは極限状態に近い難民キャンプでも同様であった。これを『遅れていて不幸だ』とか、『可哀そうに』とみなしがちであるが、彼らの実生活、その精神生活にふれた者ならば、異なる感想を抱くにちがいない。」(『辺境で診る 辺境から見る』P999-100)

 中村さんは緊急手術のあと、満点の星を見上げて、「命の値踏み」について考える。

北極星を探して東を定め、遠い日本に思いを馳せる。そして、意図的に処置をしなかったもう一人の負傷者の不安な表情が、悲しく流れ星のように心をよぎった。

 十年前なら、私も医療事情に悪さと、先進国との余りの格差に悲憤したことだろう。しかし、何故か重苦しくは考えることができなかった。ここでは、生も死も、悠久の自然の中に渾然と溶け合っている。「臓器移植」、「脳死」、どうでもよい小さなことだった。それもまた、私たちとは余りに遠い、賢しい議論としか思えなかった。確かなのは、文明国日本では人間の生死の定義について『マニュアル』が要り、元来割り切れぬ人間的自然に対しフィクションが必要になってきたということであろう。その善し悪しをとやかく言いたくない。だが、少なくともここ極貧の『文明の辺境』では、分を越えた生への執着や『不安の運動』から、私たちが自由であることに感謝した。」(『医は国境を越えて』P170~174)

『医は国境を越えて』(石風社

 過酷な状況に直面し、日々刻々答えを出しながら中村さんの人生が編まれ、中村哲という人間がつくられてきた。

 人間とは、命とは、幸せとは何かについての深い洞察が出て来る源泉を見る思いがする。

(終わり)

中村哲医師とフランクル6

 トルコ南部の大地震は、時間とともに被害の大きさが分かってきて、12日夜の段階で、隣国シリアもふくめて死者が3万人に近づいているという。

シリアの反政府勢力が治める北西部では、アサド政権軍が被災地を攻撃したという。ロシア軍と同じ非人道的な行為。(TBSニュースより)

シリア北西部では重機などが不足し、がれきの下にいる人も救えないという(TBSニュースより)

 この国境地帯は、ながい戦乱がまだ収まらないところだ。厳しい寒さのなか、焚火を囲んで涙を流すシリア難民の姿には言葉を失う。

 「戦争をしている場合ではない。まずは天災に被災した人々を助けよ。」

 これはアフガニスタンの大干ばつを前にした中村哲医師が叫び続けたことでもある。

トルコ南部の町、ガジアンテープの被災状況も激しいものだったようだ。これは2019年に安田純平さんのドキュメンタリーを撮影に行ったさいのスナップ。いい街だった。

通りを歩いていると「お茶飲んでいきな」と声を掛けてくるフレンドリーな人びと。日本人にはとくにやさしい。(筆者撮影)

色鮮やかな果物屋の店先。(筆者撮影)

私が歩いた通りや会った人も被害にあっているのかもしれない。(筆者撮影)

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 前回、中村哲医師は、フランクルのいう「人生からの問いかけ」、中村さんの表現では「天から人への問いかけ」への「応答の連続」こそが人生だとみていることを指摘した。

 フランクルによれば、その人の職業や立場はどうでもよく、「重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだ」という。これは中村さんの座右の銘といってもいい「一隅を照らす」にも通じる。

 ユダヤ人であるフランクルたちは、強制収容所という思いもよらない場所で、その「問いかけ」に答えなければならなかったが、私たちも、状況を自分で選んで生きているわけではない。ささいなきっかけや意外な出会いのなかで自分の活動範囲が与えられることも多い。

 中村さんは人生をこう述懐している。

「なにものかに引きずられるながら、自分でも予想だにしなかった遠くまで、旅してきたような気がした。さながら曼荼羅のように、次々と新たな問いと困難に遭遇し、振り返れば日本から遠い地点に立っていた。(略)全ては縁(えにし)の縒り合わさる摂理である。人が逆らうことができぬものなのだ。」(『ダラエ・ヌールへの道』P10-11)

「もともとペシャワールに行くハメになったのが蝶や山で、遊びで行ってのっぴきならぬ事態に次々と遭遇し、足が抜けなくなったまでのことである。『エーイ、こうなったら行けるところまで行け。対峙する問題から目を背けて今更現地を見捨てて逃げれるものか』と述べた方が事実に近い。会いにきた人々をがっかりさせることもあり、逆に安心させることもある。

『先生をそこまで駆り立てるものは何ですか。』

『やむにやまれぬ大和魂ですたい。』

『古くさいことを言って、はぐらかさないでくださいよ。』

『それで納得されなければ、縁とでも申しましょうか。』

『またまた、そんな。奥ゆかしい。』

 こんな問答を数えきれないくらいしたが、実は半分「はぐらかし」ではなく、本当なのである。強いて言えば、現地に対する愛着と興味、そして多くの出会いが我々を動かすものなのかも知れない。ご縁だと言えば皆笑うが、軽く思ってもらうと困る。日本人は良い関わりを望むときに五円玉をのし袋に入れて渡す風習がある。『ご縁を』と、『ご』を付けて縁そのものを崇拝する。『縁がありましたら』を現地風に訳せば『インシャ・アッラー(神の御意志ならば)』に近い。天の摂理の赴くところ我ここにあり、である。我々が意図して何か成ることは案外少ない。昔の日本人はそれを知って大切にしていた筈だ。それを、味気ない因果関係に過度にこだわり、『偶然』だの、『いきあたりばったり』だのと言い換え、逆に『人の意志』とか『やる気』だとかを無闇やたらに強調するのは、日本人本来の美点と洞察力が薄れてきた証拠である。」(P205-206)

 中村さんは1978年6月、福岡の山岳会(福岡登高会)が、パキスタンアフガニスタンの国境にあるヒンドゥクッシュ山脈の最高峰、ティリチ・ミール峰に遠征隊を出した。中村さんは、31歳のこのときまで国外はおろか、九州の外にもでたことがない「田舎者」だったが、蝶と山が好きなことから登山隊付き医師として参加した。生まれて初めて飛行機に乗ったのもこのときだったという。

 遠征隊が登っていく道すがら、医者がいると知った村人たちが押し寄せてきた。

「我々が進むほど患者の群れは増え、とてもまともな診療ができるものではなかった。有効な薬品は隊員達のためにとっておかねばならぬ。処方箋をわたしたとてそれがバザールでまともに手に入るとは思われない。結局、子供だましのような仁丹やビタミン剤を与えて住民の協力を得る他はなかった。

 ある時、咳と喀血で連れてこられた青年がいた。父親が治療を懇願した。診ると明らかに進行した結核だったので、直ちに町へ下りて病院でちゃんとした治療を受けるように申し渡した。ところが、父親が答えていわく、

「町でちゃんとした治療が受けられるなら、わざわざ二日もかけて先生のところまでこない。第一チトラールやペシャワールに下るバス代がやっとで、病院についても処方箋だけ貰ってどうせよというのか。」

 これには返す言葉がなかった。(略)

 こんなところに生まれなくてよかったと割り切ればそれまでだが、私はどうしてもそれができなかった。しかも病人は彼だけでなない。みちすがら、失明しかけたトラコーマの老婆や一目でらいと分かる村人に、『待ってください』と追いすがられながらも見捨てざるを得なかった。」(『ペシャワールにて』P10-11)

 この体験がのちに中村さんをこの地に連れ戻すことになる。

 これは一つの「ご縁」である。だが、このご縁をきっかけに、パキスタン奥地での診療活動を決意したのはただ一人、中村さんだけが出した「問いかけ」への答えである。

 こうした答えの連続が、唯一無二の「私」の個性をつくっていくのだろう。

「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」(フランクル

 中村さんを待っていたのは、日々、過酷な判断を迫られる現場だった。
(つづく)

中村哲医師とフランクル5

 日本共産党の除名処分が注目されている。

 著書「シン・日本共産党宣言──ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由」(文春新書)で、共産党で党首公選を行うように求めている現役党員の松竹伸幸氏(67)が、党の規約上最も重い「除名」の処分を受けた。小池明書記局長が2023年2月6日の記者会見で明らかにした。

 この問題は、ネットで大きな話題になり、新聞が社説で取り上げるほどに盛り上がっている。ただし、除名の理由が「党首公選の主張や、著書の出版が分派活動とみなされた」と報じられているが、ここにはちょっと誤解がある。

 『しんぶん赤旗』に載った土井洋彦書記局次長の論説でも、「松竹氏の除名処分は、『党首公選制』という意見を持ったことによるものではない」と述べている。

 では何が問題か。
 共産党のヒラ党員が、自分の所属する地域や会社などの党組織(支部)を越えて、広く全国の党員に「呼びかけた」ことだ。

 共産党は、特殊な事情のある場合を除き、中央委員会―県委員会―地区委員会―末端の支部(かつての「細胞」)まで厳しいタテ線で組織されており、これを外れることは許されない。例えば、東京の組織(支部)のある党員が、このタテ線を飛び越えて、千葉県の組織(支部)に属する友人の党員と「今回の党中央の方針はおかしいと思う」などと意見交換をすれば即規律違反となる。

 非合法時代、この組織原則により、一つの細胞が弾圧を受けても、横の連絡がないため、芋づる式に逮捕されてダメージが広がることを防ぐことができた。強大な敵権力との、生きるか死ぬかの闘争においては、こうした軍隊に準じる組織づくりが求められた。

 自由に意見を言えるのは自分の所属党組織(支部)のなかでだけなのだ。ヒラの一般党員が全国の党員に問題提起して意見を交換しあったり、党中央と違った意見への賛同を求めたりする手段はない。(『しんぶん赤旗』は「共産党中央委員会」の機関紙であり、中央委員会と異なる意見は載せない)

 少数意見が議論を経ながらしだいに同調者を増やして多数意見になっていくという民主主義の機能は、共産党の組織論には組み込まれていない。

 党員同士でさえ自由に意見交換できないのだから、党中央と異なる考えを党員以外の人に言うことはもちろん禁止される。今回、松竹氏は、党中央と異なる主張の本を、許可なく出版したわけで、共産党の論理からすれば当然NGである。

 さらに、松竹氏は、除名処分を「不服」とし「再審査」を求めて、(タテ線を外れて)党員たちの賛同を広くつのる旨、宣言しており、これが「分派活動」とみなされるのは明らかだ。

 以下は、中村たかえ(広島市議選予定候補)という共産党員のツイート。
https://twitter.com/jcp_takae

 

 この赤旗の論文では、これを「党内に松竹氏に同調する分派をつくるという攻撃とかく乱の宣言にほかなりません」と激しく非難している。

 レーニン以来の前衛党に特有の組織論「民主集中制」については、半世紀前に日本共産党中央が例外的に異論を一部公開し、党内で大論争になった。その結果、党中央の見解を批判した著名な知識人党員をふくむ多くの党員が排除され、議論も封印された。

 「民主集中制」は日本共産党のアキレス腱。共産党は「恐い」という国民の意識の根本にこの問題がある。これを乗り越えないと、共産党が政権に近づくことはもちろん、今後、大きく支持を伸ばすこともむずかしいだろう。


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アウシュビッツの入り口。ユダヤ人、ロマ、社会主義者、同性愛者などは「労働は自由にする」(働けば自由になる)との標語の下を通って収容されていった。(筆者撮影)

 『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)は、ビクトール・フランクルの日本に翻訳された著作の中でも愛読者の多い一冊である。

 これは、彼がナチス強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で行なった三つの連続講演で、自らの生々しい体験をもとに考察した「生きる意味」を説いている。

フランクルは生涯、「生きる意味」について考えた

 前回『夜と霧』で引用した考えかたをこの講演で全面的に展開している。

 「しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。」

 「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。」

 その問いは、具体的に、その時、その場で問われるものだとフランクルは言う。
 チェスの世界チャンピオンに、特定の具体的な局面、具体的な駒の配置をはなれて、「どういう手が一番いい手だとお考えでしょうか」と尋ねることが無意味であるように、生きる意味の問題は、「具体的なここと今において問われるのでなければなりません。」(P25-30)

 中村哲医師は、自分をセロ弾きのゴーシュになぞらえて、こう言っていた。

「賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。遭遇する全ての状況が―古くさい言い回しをすれば―天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである。その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か、伝えてくれるような気がします。それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません。」

 その時々に「天から人への問いかけ」があり、「それに対する応答の連続」こそが人生だとする中村さんの哲学は、フランクルの主張とぴったり重なっているように思われる。 

 では、「天から人への問いかけ」に対して、私たちはどのように答えればよいのだろうか。

 フランクルによれば、まずは「活動」で答えるやり方があるという。何かをすることで、何か作品を創造することなどで、人生が出す具体的な問いに答えることだ。

 これについて、ある青年が議論を吹っかけてきた。「私は一介の洋服屋の店員ですよ。私はどうしたらいいんですか」と。
 フランクルは、その人が何をして暮らしているか、どんな職業についているかはどうでもいいことだという。

「むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くし ているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生活がどれだけ『まっとうされて』いるかだけなのです。」 

 では、中村さんの「答え」はどのようなものだったのか。
(つづく)

中村哲医師とフランクル4

 いまニュースをにぎわせている広域強盗事件

 なぜ多くの若者たちが簡単にSNSリクルートされ、犯罪に加担してしまったのか。
 メディアの言葉の使い方を批判するのは、ジャーナリストの浜田敬子氏だ。

浜田敬子氏。バランス感覚の優れたリベラル派の論客だ。(5日のサンモニより)

メディアもふくめ『闇バイト』という言葉を使う。私はこの言葉の軽さが、犯罪に対するハードルを下げている感じがする。お金に困ったら『高額バイト』、『闇バイト』とSNSに気軽に書き込んでしまう。これによって、「犯罪」なんだという意識が、とくに末端で使われている人には非常に薄いのではないか。

 メディアの言葉の使い方、『闇バイト』もそうだが、『パパ活』などもよく使うが、これも「売春」なんですね。性犯罪なんですね。

 これは「犯罪」なんだということと、今回のような一連の強盗の仲間に入ってしまったら、身分証もとられているし、逮捕されるまで抜け出せないんだということをメディアもしっかりと伝えていく必要があると思う》(5日のサンデーモーニングでのコメント)

 賛成です。言葉一つで、実態が覆い隠されることがよくある。

 政府は去年12月に閣議決定した安保関連3文書で、長年使われてきた「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」に言い換え、正式に名称変更した。

 近年、名称変更による印象操作が多すぎる。

「安全保障関連法」➡「平和安全法制」、「共謀罪」➡「テロ等準備罪」、「武器輸出三原則」➡「防衛装備移転三原則」などなど。

 メディアはもっと言葉に注意を。

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 ビクトール・フランクルの『夜と霧』には、被収容者にとって、「生きる意味」が死活的に必要だったことがこう描かれている。

 収容所では、1944年のクリスマスと45年の新年のあいだの週に大量の死者が出た。

「この大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる」。落胆と失望でうちひしがれ、抵抗力を失わせたというのだ。

アウシュビッツの収容棟(2016年訪問時、筆者撮影)

収容棟の中の蚕棚のような寝床。ここに何人もが詰め込まれた。(筆者撮影)

 精神科の医師であったフランクルは、被収容者に、「彼らが生きる『なぜ』を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、(略)収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない」と考えた。

「生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。
 『生きていることにもうなんにも期待がもてない』
 こんな言葉にたいして、いったいどう応えればいいのだろう。」

 ここでフランクルは、「コペルニクス的転回」で答えを提起する。

「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」。

 そして、その問いと答えは、つねに具体的であるという。

「この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で応えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。」

 収容所では自殺をはかる人が多かった。しかし、「自殺を図った者を救うことはきびしく禁止されていた。仲間が首を吊ったところを発見しても、綱を『切る』ことは規則で禁止されていたのだ。したがって、あらかじめそうさせない努力が重要だったことは言うまでもない」

 フランクルは自殺願望をもつ二人に、生きることが彼らからなにかを期待していることを示して、自殺を思いとどまらせた。

 一人には、外国で父親の帰りを待つ、目に入れても痛くないほど愛している子供がいた。もう一人は研究者だったが、彼を待っていたのは、まだ完結していない、余人に代えがたい仕事だった。

「このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」。(『夜と霧』新訳P128~134)

 このフランクルの哲学は、中村哲医師のそれに響き合うように思われる。
(つづく)