「重荷を負いあい支えあう」(中村哲)

ロウバイ

 10年前に種を植えた蝋梅が初めて花をつけた。今朝も寒いな。

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 今週、ワシントンDCで日米両国の外務・防衛担当閣僚協議(2プラス2)と日米首脳会談が行われるという。

 NHKの取材に対し、エマニュアル駐日大使は「岸田総理が予算まで実行したことで、(バイデン)大統領は今年早々に岸田総理をホワイトハウスに招きたいと考えたのです」と語る。

NHK国際報道より


 「『これが私たちの目標だ』というのと『これが目標を実現させるための予算だ』とは全く別の話」(大使)だからだという。ここまでやってくれたのか、あっぱれ、というわけで岸田総理がホワイトハウスに呼ばれたと、エマニュエル大使は率直に言う。

 日本政府は2022年末に国家安全保障戦略など安保関連3文書を閣議決定し、「敵基地攻撃能力」の保持、そして2027年度に防衛関連経費をGDPの2%にすることをうたっている。「2プラス2」では米国と安保・防衛協力の「認識を擦り合わせる」という。

 大使はに日米がAlliance Protection(守りの同盟)からAlliance Projection(打って出る同盟)に変化したとし、今後の日本の役割に大きな期待をかける。バイデン大統領はIntegrated Deterrence(総合抑止力)という考え方を打ち出し、米軍だけでなく、外交や経済力、同盟国など関係国の力を活用して抑止力を築く方針に転換した。要は、米国の相対的な弱体化によって一国だけでは「警察官」の役割を支えられず、日本のような「ポチ国家」はもっと前面に出よということだ。

 大使は国連でASEAN10か国のうち8か国がロシア非難に回ったことを「日本の外交の働きかけによる成果」とたたえる。欧米vsロシア・中国の分断・対立のなか第三極のいわゆる「グローバルサウス」をどう味方につけるかがポイントになっているが、そこに日本が切り込み隊長として出張っていくことが期待されている。

 対ロシアをにらんだエネルギー戦略も協議されるとのことで、アラスカのLNGを購入することや小型原発のSMR(小型モジュール炉)を日米が連携して世界に輸出することなどもテーマになるという。

 「聞く耳」を全く持たずに暴走を続ける岸田総理、米国に呼ばれて何を約束してくるのか、注視しよう。

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 前回の続きで、中村哲医師の思想、生き方を辿っていこう。

 そもそも、中村哲医師がパキスタンアフガニスタンに支援に乗りだしたのはなぜか。今回はその初心を取り上げる。

 はじめのきっかけは、中村さんが蝶が見たいばかりに1978年、パキスタンへの登山遠征隊に同行、山奥の人々が医療にアクセスできない現実を知ったことだった。1983年にパキスタン北西部のペシャワールへの赴任を決意。9月には中村さんを支援するペシャワール会が発足、中村さんは英国での研修の後、84年に現地に入る。

 ペシャワールにあったのは「汚い聴診器が一つと、ディスポ(使い捨て)の注射器をなんべんも使っていました」という劣悪な医療環境だった。その現場に中村さんは飛び込み、2千数百人のライ(ハンセン氏病)の患者を担当することになる。

 なんでまた、そんなところに行くの?(しかも、妻と小さい子どもまで連れて・・)と聞かれた中村さんは―

浪花節的ですが、大和魂がだまってられん、ということでしょうね」という。相手は笑っておしまいになるのだが、もちろんそれだけではないはずだ。
 実は、この決意を支えるのは、現代世界の不条理への憤りとわが日本のありようへの冷徹な批判だと思われる。

 中村さんはペシャワール赴任の直前、84年1月に、熱帯病の研修先の英国リヴァプールから手紙「ペシャワール会会員の皆様へ」を書き送っている。そこにはこう書かれている。

「今日の日本の繁栄に限らず、全ての『繁栄』と名のつくものは、弱者の犠牲の上に築かれてきたことを否定するものはいますまい。悲しいまでに徹底したこの構造は、今日の緩和されるどころか、明らかには意識されにくい形で強化されているというのが現状であります。もし日本の中に平和と平等があるというものがあれば、それは、コップの中の平和と平等である。」

 そして、自身の力は小さく、医療援助が社会を変えるようなことには貢献できないとことわりつつも、以下のように「希望」を語っている。

「それでもなお私たちは重荷を負いあい、支えあって生きるという姿勢を捨てるべきではありません。世界が金と力で動かされ、利己主義や敵意、我執や妬みで満ちているとはいえ、この世界をかろうじて破滅から守っているのは、このような『支えあう』という善意の努力かも知れません。少なくとも、たとえわずかであってもわが身をけずって分ちあうことが、どんなに暖かい光となって私たちをうるおすか、はかり知れません。」

 中村さんは、日本人である自身のある種の「原罪」を背負ったうえで、「支えあう」善意に賭けていたのではないだろうか。

 手紙の最後には、八木重吉の詩が記されていた。

もえなければ かがやかない
かがやかなければ
せかいはうつくしくない
わたしがもえなければ
あたりはうつくしくない

(つづく)

年頭、中村哲医師の哲学にまなぶ

 「小寒」(しょうかん)になり、いよいよ「寒の入り」だ。今から節分までが「寒の内」で一年でもっとも寒い時期だといわれる。今はその初候「芹乃栄(せり、すなわちさかう)」。
 きょうは「七草がゆ」の日だが、うちでは芹だけのおかゆを食べた。いい香りを味わいながら、今年も一年、健康ですごせますようにと願う。

 年頭、『医師中村哲の仕事・働くということ』というビデオを観た。

 これはワーカーズコープ(日本労働者協同組合)が企画して日本電波ニュース社が製作したもので、中村さんの業績ではなく仕事観・労働観に焦点を当てたユニークな作品だ。仕事の価値、命の尊さ、生きる喜びなどに関する中村さんの考え方、感じ方を拾い上げていて興味深い。

 中村さんが亡くなったあと、ペシャワール会報の追悼号で、中村さんの片腕だったジア・ウル・ラフマン医師(11月の取材に同行してくれた)が中村さんを「医師でありエンジニアでありましたが、それ以上に哲学者でありました」と評している。

 このビデオを観てほんとうにそうだなあと思う。人生にとって大事なものとは何かを考えさせられる言葉が並ぶ。以下、ビデオから拾いながら味わってみた。

《私たちに確乎とした援助哲学があるわけではないが、唯一の譲れない一線は、「現地の人々の立場に立ち、現地の文化や価値観を尊重し、現地のために働くこと」である。》ペシャワール会報より)

 「現地の立場に立つ」とは誰でも言いそうなのだが、実際には意外に難しい。中村さんの活動した地域でも、医療支援に来たキリスト教団体が診療より布教を優先してトラブルになったケースや女性解放などの価値観をもって農村に入っていって反発をかうことがあったという。
 ボランティアが「自分探し」で志願したり、本部の指令や組織の都合を重視することもよくある。

 「地域の立場」というのは中村さん風に言うと「地域の英語も通じないような人たちの意見をよく聞いて、そして彼らの望むことをまず実現する」ことだろう。(井上ひさしとの対談より) 中村さんは現地で活動するにあたって、パシュトー語ウルドゥー語まで習得していた。

 「現地の文化や価値観」の尊重に関する中村さんの深い見識については、先日のブログで触れた。

takase.hatenablog.jp

《「一隅を照らす」とは、私の好む言葉である。我々は現地との深い関わりを縁(よすが)として日本の良心を束ね、共に歩んで労苦と豊かさを分かち合い、以て人間と自らを静かに問い続けるよすがともしたい。
 うわべの時流に木の葉のごとく漂うのも石のごとく沈むのも自由なら、我々はあえて時代に迎合せぬ不動の石でありたい。》(会報より)

 「一隅を照らす」については本ブログで何度か紹介した。

takase.hatenablog.jp


 その次の言葉の解釈は人によってかなり違ってきそうだ。中村さんはあえて「日本の良心」という。中村さんを「コスモポリタン」とイメージする人がいるが、私はそうではないと思う。

 どうしてパキスタンの僻地の「らい病」の治療などに携わることにしたのか(しかも奥さんと小さい子どもまで連れて)と問われて、中村さんは「浪花節的ですが、大和魂がだまってられん、ということでしょうね」と微笑みながら答えている。(ビデオより)

 中村さんは今の日本、とくに日本人の精神的荒廃に大きな危機感を持っており、「一隅を照らす」活動をつうじてその原状に一石を投じたいと思っていたのではと私はかってに推測している。
 

《病院にたてこもってじっと待っていたのでは駄目で、予防や教育のために、外にうってでなくてはなりません。
 ただ人の窮状を絶叫するのではなく、現実的な本当に効果のある方法で問題を共に解決してゆこうとすることが、私たちの仕事を真に実りのあるものとする道であり、「分ちあう」ということだろうと私は思います。》(会報より)

 中村さんは、らい(ハンセン氏病)の治療だけでなく、退院後の生活にも心を砕いた。らいになると抹消神経がマヒして足の裏に傷ができても気づかず症状を悪化させることが多い。そこで中村さんは、靴やサンダルを買い集めて形状や構造を研究し、一人ひとりの変形した足に合わせたオーダーメイドのサンダルをつくる工房を病院の中に開設した。これによって足に傷ができて化膿し再入院するケースが激減したという。

 中村さんが「実際家」であることをよく示すエピソードである。

 スタッフを前にして「議論は不要、行動あるのみ!」と檄をとばすシーンは印象的だが、とにかくできるところから手を付けろというのが中村流なのだ。

 「一隅を照らすというのは、一つの片隅を照らすということですが、それで良いわけでありまして、世界がどうだとか、国際貢献がどうだとかという問題に煩わされてはいけない。
 それよりも自分の身の回り、出会った人、出会った出来事の中で人としての最善を尽くすことではないかというふうに思っております。」(『医者よ、信念はいらない まず命を救え!』より)

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 中村さんは用水路を作ると決めるや、土木工学を学ぶため、娘の教科書を借りて苦手な数学から勉強しなおし、自ら設計図を引くまでになったことは知られているが、どんなに困難にみえても、解決にむけて具体的に一歩を踏み出し自ら取り組む姿勢はすごみさえ感じさせる。まさに「議論は不要、行動あるのみ」。

 また、「分ちあう」ことの大事さは、自己実現とか自己責任とか「自分」のことしか考えなくなっている今の日本にこそ必要とされるものではないか。


《弱者は率先してかばうべきこと、職業に貴賤がないこと、どんな小さな生き物の命も尊ぶべきことなどは、みな祖母の教説を繰り返しているだけのことだと思うことがある。》(『天、共に在り』より)

 中村さんが幼少期を過ごした北九州の若松港は、筑豊炭田の石炭を積み出す基地として栄え、祖父の玉井金五郎と祖母マンは石炭を船に積み込む沖中仕(港湾労働者)から身を起こして、多くの沖中仕を束ねる玉井組を率いていた。今でいう労働組合の先駆のようなものだが、「ごんぞう」と呼ばれていた沖仲仕は世間では最底辺の人間とみられ、朝鮮人や流れ者なども多かった。祖父母はどんな境遇の人でも一切差別をせず、困っていれば手を差し伸べたという。

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 「弱い者いじめはいかんと、徹底的に周囲の環境から叩き込まれた。たとえ少数であっても正しいことは正しいことなんだと言って、自分より強い者にはむかうということは美徳だというのが一つの教えだったんですよ。それが昔の日本人にしみついていたことですね」。(ビデオより)
 中村さんが自らを「古い日本人」と称するゆえんである。

《命はただ単に経済発展や技術進歩だけで守られないというのが、ささやかな確信である。
 必要なものは多くない。
 恐らく、変わらずに輝き続けるのは、命を愛惜し、身を削って弱者に与える配慮、自然に対する謙虚さである。》
(会報より)

 中村さんはつねに二つの関係を同時に考えている。それは「人と人の関係」と「人と自然の関係」だ。
 大干ばつを前にして医療から用水路へと転換したことは、中村さんが地球温暖化との闘いの最前線に立ったことを意味する。中村さんは「平和」という切り口で語られることが多く、ここは意外に見落とされがちなので、あえて強調しておきたい。

 また「必要なものは多くない」というのは含蓄に富んだ言葉で、以下も参考になる。

「人間にほんとに大事なものは何か、ほんとにこれは絶対必要だとか、これは余計なものだとか、こういうところにいるとそれは非常に鮮明な形で出てくる。その中で、自分の気持ちがそこで少し豊かになっていくことがあったような気がするんですね。それが逆に私たちを励ます。それによって我々養われてきたような気がする」。(ビデオより)
 中村さんが、「単にこっちが与えただけじゃなくて、いろいろ受け取るものもある」という中身がこれである。

《己が何のために生きているかと問うことは徒労である。
 人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ。そこに生じる喜怒哀楽に翻弄されながらも、結局はそれ以上でもそれ以下でもない。
 だが、自然の理に根差しているなら、人は空理を離れ、無限の豊かな世界を見出すことができる。そこで裏切られることはない。》
(会報)

 人は何のために生きるかという実存的な問題(いわゆるBig Questions)にずばっと答えていてハッとさせられる。これはそれぞれがじっくり考えるべき言葉だ。

 ただ、ここでも「自然の理に根差す」べきことを言っていることに注目したい。人間と自然との関係は、中村さんの人生論にとって基本中の基本なのだろう。

《完成した「マルワリード用水路」は、逃げ場を失った多くの人々に希望を与え続けるだろう。私もその一人である。私たちの共有した労苦と喜びの結晶は、人々の命の営みが続く限り記憶されるだろう。これは人間の仕事である。》(『医者、用水路を拓く』より

 「これは人間の仕事である」と断言している。自分の仕事をこう語れるとはすごい。ひるがえって「自分は?」と問わざるをえなくなる。

 こうしてみると、中村哲という人は、非常に深く思索していただけでなくその思想を「血肉化」している。単に頭で「理解」するのではなく、思想が自身の人格になるまでに染み込ませているように感じられる。

 次はこのビデオを離れ、さらに中村哲学、中村思想を探求していこう。
(つづく)

それでも声を上げ続ける香港の記者たち

 明けましておめでとうございます。

 まずはアフガニスタン取材報告のご案内です。

 1月21日(土)午後2時から「タリバン政権と故中村哲氏のレガシー」というオンライン講演会をやります。主催は日本ジャーナリスト会議で参加費は500円です。関心のある方はぜひご参加ください。

www.facebook.com

 これを皮切りに年頭からいろんな場で取材報告をやっていくので、どうぞよろしく。
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 お正月は好きな劇団の野外劇を観に行くことにしている。

さすらい姉妹の座長にして看板女優の千代治。「千代治!」と声がかかる

 2日の午後、羽村市の宗禅寺での水族館劇場・さすらい姉妹「むすんでひらいて」

 アングラ劇の流れをくむ、ハチャメチャな舞台を見ていると、私も物わかりのいい爺さんにはならないで今年も“年寄りの冷や水”をやり続けようと励まされる。

 これは毎年「寄せ場巡演」として、寿町などで炊き出しに集まる労働者向けに演じられてきたもので、以前は上野公園で観ていた。コロナ禍で炊き出しがなくなったこともあって、3年続けてここ宗禅寺での観劇になった。もともと演劇はお寺や神社の境内で演じられてきたのだから、これでいいのだ。

 去年、座付き作者の桃山邑さんが亡くなり姿が見えないのがとてもさびしい。私とほぼ同年だったはずで、これからも楽しませてくれると期待していたのだが。

 ご冥福をお祈りします。

takase.hatenablog.jp

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 年末、圧政下で息も絶え絶えになっている香港のジャーナリズムを取材したドキュメンタリーを観た。(12月17日NHKBS1それでも声を上げ続ける 香港 記者たちの闘い)

 香港では、2020年の国家安全法施行で報道の自由をふくむ広範な民主的権利が極端に制限されてきた。
 21年には『リンゴ日報』、『立場新聞』が閉鎖に追い込まれ、22年1月の『衆新聞』の運営停止で政府に批判的な論調のマスメディアはほぼ全滅した。

 番組はそれらのメディアの記者たちの今を追ったもの。海外に移住したり、他の分野に転職する仲間も多い中、厳しい環境のなかでジャーナリストを続ける人びとがいる。

 『リンゴ日報』の主席記者だったアルビンインターネットラジオでコメンテーターをつとめている。「私は何かの専門家でもないし何の特技も持っていない。でも、社会に対して自分なりの視点を持っているので、僕は記者をあきらめません」という彼だが、いまは極力、自分の独自の分析や意見を出さずに事実を淡々と解説している。

アルビン

リンゴ日報の最後の紙面。これを書いたのはアルビン。記事の締めくくりは「目の前の山は高く、楽観はできない。だが暗闇の後には朝陽があることを信じてほしい。26年間の得難い歩みは、つまずきながらであったが、美しい戦いは終わりを告げた。立ち止まる姿勢もまた美しくありたい」

 大物記者だった彼にはフェイスブックのフォロワーが3万6千人いて、SNSでも毎日発信しているが、「今は本当にこの状況がどう変わるのか想像がつかない」と不安を隠せない。小さな息子を抱きながら「少しでも希望の持てる未来であってほしいと願っています。毎晩息子の顔を見るたびにもっと頑張らないと、と自分を励ましています」と語る。

アルビンと息子


 彼にかぎらず、香港のジャーナリストたちが、次世代に何を残せるかを強く意識して生きる姿はウクライナの人々を思わせた。

多くの香港のジャーナリストが未来をどうするのか、次世代に何を残すのかを考えている

 『立場新聞』の名物リポーターだったロンソン・チャンはいま記者協会の会長をつとめる。800人いた会員は半分以下に減り、圧力に抗して踏ん張っている。『立場新聞』への弾圧は彼にも及び、自宅の家宅捜索を受け、彼自身も連行された。今はインターネットでニュースをライブ中継している。

 この日は、老朽化したマンションの修繕工事業者の入札に関する住民と管理組合の集会を取材した。取材を終えて―

若い住民が管理組合を激しく追及

現場から実況中継する

ロンソン・チャン

 「こうした問題は主流メディアは関心を寄せず、正直、立場新聞でも取り上げなかったかもしれません。これからは民主や政治を声高に叫ぶのではなく。こうした市民生活に関わる話題に焦点を当てます

アルビンとチャンはかつて同じ新聞社の同僚で共同執筆した記事で表彰もされていた

サッカーを楽しむ現在の二人

 あっという間に暗転した環境の変化に苦しみながらも屈しない香港のジャーナリストたちの姿に励まされる。

 また、SNSを含むインターネットメディアの活用、大上段にかまえたテーマではなく市民生活に密着した取材に活路を見出そうとしている点は、日本のジャーナリズムも学ぶべきだろうと思った。

いのちには終る時ありそれ故に互いの“今”をいかしあひたし


 アフガニスタン取材について年内に二つネット記事を公開しました。

 来年も発信を続けますので、よろしくお願いします。

 デイリー新潮「アフガニスタン 日本人記者が『地下学校』に潜入取材 タリバンの女子教育禁止に広がる抵抗」

www.dailyshincho.jp

 

 高世仁のニュース・パンフォーカス「アフガニスタン・リポート① 経済崩壊で危機に立つカブールの市民たち」

www.tsunagi-media.jp

 

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 いのちには終る時ありそれ故に互いの“今”をいかしあひたし
 
 5月に亡くなった遠藤滋さん(享年74)は、脳性まひで歩行や会話に不自由を抱えつつ、学生運動や社会活動に積極的に参加。病が進行するなか、50代半ばになって短歌を詠み始め、介助者がかすかな声を聞きとってパソコンに入力していった。今から一年前の去年12月、最初で最後の歌集『いのちゆいのちへ』が刊行された。そのあとがきに遠藤さんはこう記した。

 「『自らのいのちをいかすこと』。これはなにも障害をもつ者に限らずいえることではないか。だとしたら、なんという奇跡だろうか」。
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 今月亡くなった渡辺京二さんの言葉が朝日新聞朝刊の『折々のことば』に取り上げられていた。

自分が住んでいるところが、自分が世界と向き合っているところが接点だからね
               渡辺京二

 明治になるまでは、「できるやつ」は江戸に学問に行っても、やがて国に戻り、塾を開いて後進の指導にあたったものだと、熊本在住の評論家は言う。東京という〈中心〉を経由してではなく、自分が今住んでいるその場所で世界とじかに向き合う仕事をしなければならない。拠点をもつというのもきっとそういうことなのだろう。坂口恭平との対談(「アルテリ」14号)から。(10月7日)

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 今年も一年、読んでいただきありがとうございました。
 よいお年をお迎えください。みなさまの安寧をお祈りします。

 

嘘の上に立つ偽りの帝国(ランズベルギス)

 きのうの映画『ミスター・ランズベルギス』について補足。

独立を宣言するランズベルギス。

 ランズベルギスがソ連に独立を迫った時に前面に押し出したのが、独ソ不可侵条約の秘密議定書だった。「独ソ不可侵条約」とは1939年8月23日にナチス・ドイツソ連の間に締結された不可侵条約で、激しく対立していたはずの2国が手を結んだことは世界を驚かせた。

不可侵条約に署名するモロトフ外相。後列右から2人目が上機嫌のスターリン。(wikipedia)

 日本は当時ノモンハン事件の最中でソ連と戦闘を行いつつ、日独同盟の締結交渉中で、平沼騏一郎首相は「複雑怪奇な新情勢」に衝撃を受け内閣は総辞職した。

 問題はこの条約と同時に、東ヨーロッパとフィンランドをドイツとソ連で分けあう秘密議定書が締結されていたことで、これにもとづいてリトアニアソ連が占領した。

 この議定書の存在を認めたくないゴルバチョフに、リトアニア側が、歴史的事実をもって、ソ連によるリトアニアの併合自体が無効だったと認めよと迫るのはこの映画の見どころの一つだ。リトアニアは科学と倫理という非暴力でソ連を圧倒していた。

 もう一つこの映画で印象に残るのは、リトアニア独立が引き金になってソ連邦解体が進んでいくが、権力の巨悪の部分が残ったままになったとサンズベルギスは指摘していること。リトアニアへの軍事介入を押し進めた勢力(最終的にはゴルバチョフがOKしたのだが)は処罰されないままだったし、ロシアで反動派の8月クーデター(91年8月)が鎮圧されてもエリツィンはその首謀者たちを徹底して処分しなかった。その勢力は今のロシアで「続いている」とランズベルギスが言う。今のプーチン体制にも根底でつながっているのではないか。これはロズニツァ監督の一貫した問題意識でもある。

8月クーデターに反対して立ち上がったロシアの市民たち。こんな時代があったなんて・・

 最後に、映画の中でのランズベルギスの印象的な語りを紹介しよう。(パンフレットで想田監督が引用していて助かった)ソ連共産主義とは何か、さらには権力とは何かの核心をついている。

ロズニツァ監督「なぜ彼らはペレストロイカを打ち出したのか?」

 これに対してランズベルギスが答える。

《そもそも彼らが望んでいたのは、いかにこのまま永遠にこの領土を支配していくか。これは人類最大の過ちの一つかもしれない。だが非常にはっきりしていた。ロシア国内、つまり当時のソ連では、最高の価値とは何かに対する権力だった。小さな人々に対する権力。第一に国土に対する権力、領土に対する権力だ。そして〈国家〉と呼ばれる組織の意味は、その領土を拡大させ、不動にすることだ。国歌などでも高らかに歌われてきた。〈不動だ〉とか〈永遠に〉とか。〈レーニンは永遠に〉〈ナンセンスが永遠に〉〈その他一切は忘れなさい〉〈その他一切〉は悪だから。もし悪に仕えるなら、頭の中だけであろうとすでに敵である。何の敵か?我々の敵だ。我々は人民だ。人民の敵だ。もし政府の指示と異なる考えなら、政府だけでなく人民の敵だ。政府は人民の名で活動しているのだから。あたかも人民であるかの特権を自らに与えたから。これは根本的な嘘だ。今も生き延びている偽りの帝国も、そんな根本的な嘘の上に立っている。》

 読むうちに世界の権力者たちの顔が浮かんでくる。
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 渋谷の「イメージフォーラム」でこの映画を観たのだが、同時上映中に『浦安魚市場のこと』があった。千葉県浦安市の1953年(私の生まれた年だ)創業の魚市場が2019年3月に閉場したのを追った映画で、監督は歌川達人さん。歌川さんは、私がプロデュースしたカンボジアの絹絣を復興した森本喜久男さんの「情熱大陸」で撮影を担当してくれたご縁がある。最近テレビを制作していた知り合いが次々に映画を監督している。テレビがどんどん面白くなくなっていることに比例する動きのように思う。こんど観に来よう。
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 ゼロコロナ政策を緩めたら、またたく間に感染爆発が起きている中国だが、コロナ対策への不満に火が付いたきっかけは、新疆ウイグル自治区でのアパートの火事だった。当局の厳しい地区封鎖で、消防車が入ることができず消火活動が遅れたことが多くの犠牲者が出る事態になったという情報がSNSで広まったとされる。

 この火事によって、何年も音信のなかった家族の消息を知ったウイグル人がいる。

 以下、NHK「国際報道」より。

 トルコのイスタンブールに暮らすムハンメット・メメットアリさん(22)は、6年前からトルコに住んでいる。イスラム教の聖典コーランを読むと連行されるなどウイグルの人たちを取り巻く環境が厳しいことから、姉とともに民族的にも近いトルコに移り住んだのだ。

メメットアリさん(NHKより)

母と4人のきょうだいが亡くなったとの知らせが、6年ぶりの家族の消息となった(NHK

メメットアリさんがトルコに出たあと、父と兄が拘束された(NHK

 ところが、メメットアリさんがトルコに出たあと、父と兄が中国当局に拘束されたと知人が知らせてくれた。姉とともにトルコに渡ったことが当局に問題視されたのだろうという。

 その後、家族とは6年間まったく連絡が取れない状態が続いた。連絡をとったと当局に知られたら、家族は刑務所行きになってしまう。そこに6年ぶりに届いた家族の知らせは、母と幼い4人のきょうだいたちが死亡したという信じられないものだった。

 「消防署も病院も近かったのになぜ助けられなかったのか中国政府に釈明してほしい」とメメットアリさん。それと同時に、日本をふくめ、世界がウイグルの問題で声を上げてほしいという。

イスタンブールでの中国に対する抗議デモ(NHK


 日本のマスメディアは、最近のウクライナ問題は大きく取り上げるが、ウイグル問題は弱い。人権抑圧の程度はジェノサイドとも表現されるほどひどい。忘れることなく、ウイグルの人々と連帯しよう。

 

映画「ミスター・ランズベルギス」を観て

 仕事が一段落したので、映画『ミスター・ランズベルギス』を観に行く。

政治家なんかになるつもりはなかったと語るランズベルギス氏(映画より)

 「リトアニア独立の英雄ランズベルギスが語る熾烈な政治的闘争と文化的抵抗の記録」で上映時間は4時間を超える。観るには覚悟がいる。

 ソ連邦から最初に独立を宣言したのはリトアニアだった。
 1990年3月11日、最高会議で「リトアニア国家再建法」を賛成124票、反対0、棄権6で可決し独立を宣言する。

共産党員としてはじめて最高会議議長に就任したランズベルギスが独立を宣言した(映画より)


 ゴルバチョフはこれを認めず、リトアニアを経済封鎖し、さらに91年1月には軍事介入に踏み切った。市民は最高会議やテレビ塔などの前に集まり人間の盾となってソ連軍に抵抗した。ソ連軍が民間人に発砲し死傷者も出た。(血の日曜日事件

 ゴルバチョフに対する「善人」イメージがこなごなになる。言論の自由を多少認めたが、ソ連邦という体制をひっくり返す気はなかった、むしろガス抜きして体制を擁護しようとしたことが明らかになる。

 こうした弾圧にも人々は屈せずに91年9月、ついにソ連に独立を認めさせた。このリーダーが、ピアニストで国立音楽院の教授だったランズベルギスだった。ソ連軍の介入に対して、最高会議を守るために志願兵をその場で募りバリケードを作るなど防衛態勢を立ち上げるが、大きな戦闘は起きず、多くの市民がソ連兵の前に立ちはだかって軍事行動を封じる非暴力的闘争が大きな役割を演じた。

 映画はランズベルギスの語りにアーカイブ映像で歴史の流れをたどっていく。この歴史自体がドラマチックなので引き込まれていく。
 軍隊まで派遣して独立を封じようとしたゴルバチョフノーベル平和賞を受賞し、その一方でリトアニアの人々がソ連軍に「ファシスト!」と罵声を浴びせるシーンは、それだけで歴史の「真実」を訴えかける。

ゴルバチョフは軍隊を送って弾圧しようとした(映画より)

 ランズベルギスという人物がまた実に魅力的で、もとはピアニストで活動家っぽくない。人情味があってかつ冷静沈着。これなら苦境のときでもみんながついていくだろうなというリーダーなのだ。
 この映画は歴史の記録であるとともに、ランズベルギスというとても魅力的な人間の肖像でもある。

 危機や混乱のとき、歴史はすごい偉人を生み出すことがあるが、彼はまちがいなくそういう人だ。90歳なのに若々しくウィットに富んだ話しぶりがいい。

 監督はセルゲイ・ロズニツァで、1964年ベラルーシ生まれ。ウクライナキエフで学び数学士の資格をとり人工知能の研究をしていたという。91年のソ連崩壊の年からモスクワで映画を学び始めたという異色の経歴をもつ。
 私は今年『ドンバス』、一昨年『アウステルリッツ』、『国葬』、『粛清裁判』を観ていずれも素晴らしかった。

takase.hatenablog.jp

 

 ロシア(ソ連)が他民族を支配しようとありとあらゆる手段で介入し、それに「自由」を合言葉に人々が抵抗する姿・・・この映画を観ると、誰もがウクライナを思い浮べると思う。映画ではおもに「非暴力」での抵抗が描かれる。

 いま、国防をめぐる政策が注目されるなか、ランズベルギスの見事な外交力、政治力と独立までの一連のせめぎあいは、今後の日本の進路を構想するうえで非常に参考になる「教材」だと思う。その意味でも多くの人に観てほしい映画だ。

 リトアニアは行ったことがある国だが、知らないことが多く、勉強しようと思って映画のパンフレットを買った。

 このなかで一つ引っかかったのは、映画監督の想田和弘が「たとえ強大な軍事力を有する帝国主義的大国であっても、非暴力の政治闘争で打ち負かすことができる」こと描いた映画だとし、「私たちが目指すべきは、米国やロシアや中国といった軍事大国ではない。理不尽な力に対して力で対抗することを選んだ、ウクライナでもない私たちがお手本として研究すべきは、非暴力で独立を果たしたランズベルギスとリトアニア国民であろう」と主張していたことだ。

 「ウクライナも非暴力で抵抗せよ」とは想田氏の持論だが、ランズベルギスは同じパンフレットの沼野充義氏との対談で、ウクライナについていま「平和条約」を言うべき時ではないとし、こう語る。

「今軍事行動をなんとか止める交渉を始めなければならないなどと言うのは、欺瞞です。なぜなら、攻撃を仕掛けた国、つまり侵略者は、広大な領土を占領し、諸都市を破壊し、何十、何百、いや何千という人々をウクライナの地から追い出したのです。それを今ここで止めて凍結させるなんて、強盗の収穫、追剥の収穫になってしまうでしょう」

NHKニュースより

 また、NHKのインタビューでランズベルギスはこう語っている。

「武力で屈強な巨人(ソビエト)に対抗するのは絶望的でした。自殺行為のようなものです。しかし道徳的な方法で闘うことは効果的でした。ソビエトは軍事力を行使したことで世界を前に苦しい立場に立たされたのです。“リトアニアが武力を使うので私たちもそれに対抗している”とは主張できなかったのです。」

 リトアニアでは非暴力で成功したが、ウクライナでは困難だと彼はいう。それは当時リトアニアが対峙したゴルバチョフウクライナを攻撃するプーチンには決定的な違いがあるからだ。

「(当時は)平和的な言葉で自分の主張ができました。ゴルバチョフの周りには民主主義的に考えている側近がいたのです。プーチンの周りにはこのような側近がいません。民主主義を考えている側近が全滅させられています。絶対的な独裁者として行動するよう助言する側近ばかりです。」

 また、90年当時は「50万人のモスクワ市民がリトアニアを守る抗議デモに参加しました。今日では全く想像もできませんウクライナへの侵攻に対し、モスクワでデモに参加する人は5人もいないでしょう。当時は正義の考え方を持っていたロシア人がたくさんいました。彼らはリトアニアへの侵攻をやめるよう求めていたのです。」

 安全保障、国防というのは「相手」がある。闘いの手段、方法は、敵がどのような相手か、また具体的な条件や状況のなかで柔軟に考えるべきだろう

 なお、血の日曜日事件をたまたま居合わせた日本テレビのクルーが撮影しており、ディレクターは私もよく知る中山良夫さんだったこと、この映画にもその映像が使われていることをはじめて知った。

 銃弾の飛び交う現場での撮影は怖くなかったかと聞かれ、中山さんに同行したビデオエンジニアの石渡さんが「大勢の市民が何も持ってないのに、ソ連軍に向かって『帰れ、帰れ!リトアニアリトアニア!』と叫んでいるのですよ。しかも僕らより前線で。(略)僕らより危険な場所で大勢の市民が集まって声を出して抗議しているので、全く恐怖はなかったですね。兵士が機関銃で威嚇射撃をしても、戦車が空砲を撃って体が宙に浮いても、市民の人たちは全くびくともしないのですよね。その中にいたら自分たちも何も怖くなくなるのです」と答えているが、非暴力抵抗自体が、体を張ってあくまで闘い抜くという市民たちの強い決意に支えられていることがわかる。

(つづく)

原発政策の転換に怒る被災者たち

 日本の原子力政策が大きな転換点を迎えている。

 8月の脱炭素社会実現に向けた政策を検討する「グリーントランスフォーメーション(GX)実行会議」あたりから急に原発回帰に舵を切り始めた岸田政権だが、「最長60年」だった原発の運転期間を延長し、廃炉になる原発の建て替え推進にまで踏み込んでいる。

 岸田文雄という人、正体が分からなくなった。
 宏池会ということもあって、いくらなんでも安倍・菅政権よりはマシだろうと期待したのは私だけではないと思うのだが、統一協会にしろ防衛政策にしろ、国の“おおもと”にかかわるところで有害無益な対応を繰り返している。“聞く耳”がどうのこうのと言っていたのに、国民の声をこれほど無視して悪政を続けるとは・・。
 岸田内閣打倒!のスローガンに共鳴する。

 先日、テレビのニュースに懐かしい人が出ていた。
 山本三起子さん。原発事故で被災した大熊町の人で、会津若松市に避難生活を送っている。

山本三起子さん(NHKニュース)

 岸田首相の原発政策について、新橋駅あたりでインタビューされたサラリーマンの「使えるもの(原発)は使った方がいいんじゃないすか」とのとぼけた感想に続いて、山本さんが「納得出来ません」とNOの立場から意見を言っていた。

《当時、福島第一原発が立地する福島県大熊町で暮らしていた山本三起子さん(72)は、原発事故のあと、120キロ以上離れた会津若松市に避難しました。自宅があった地域は、ことしの夏、ようやく避難指示が解除されましたが、生活の基盤が整わないことなどから今も家族とともにふるさとを離れて暮らしています。

 原発事故によって元あった暮らしを失った立場から、原発の新設・増設などへ舵を切った政府の方針には納得できないといいます
 山本さんは「本当に想定外の話です。今も事故で避難している人がいる中でなぜこうなるのか。政府の原子力政策がころころ変わり、電源喪失や水素爆発のことも忘れてしまっている。デブリの取り出しも何も解決しておらず、再稼働には納得できません。私たちの気持ちと政府の方針がかみ合わず理解してもらえていない」と胸の内を明かしました。 

 そのうえで「ウクライナでの戦争に伴うエネルギー事情は理解できますが万が一、事故が起きた場合の代償は大きい。福島はもちろん、全国の原発立地地域の人たちはもっと怒りの声を上げていいのではないか」と話していました》(NHKニュースより)

www3.nhk.or.jp

 

 山本三起子さんを『ガイアの夜明け』で取材したのは2013年。
 大熊町で「これ以上の幸せはない」という暮らしをしていた彼女、「原発事故で、天国から地獄に落ちたのよ」と語っていた。
 彼女のことはかつて匿名で書いた。

takase.hatenablog.jp

《避難してしばらくすると、味覚がおかしいことに気づいた。味がわからなくなったのだ。ついで、耳が聞えなくなった。視覚異常も出てきたある日、急に立てなくなった。車椅子で病院に運ばれ、脳のスキャンを受けたが異常なし。結局、「うつ病」の一種という診断で、今も治療中だ。とても元気に受け答えをする人で、一見「うつ病」とは無縁に思うが、それは「薬を飲んでるから」だという。》

 原発事故は、避難した後がむしろ大変で、あれから10年以上たった今も被災者たちの苦しみが続いていることを忘れないようにしたい。

 それにしても山本三起子さんのお顔を拝見できてよかった。お元気に見えたが、いまもうつ病の薬を飲んでいるのだろうか。