いのちには終る時ありそれ故に互いの“今”をいかしあひたし


 アフガニスタン取材について年内に二つネット記事を公開しました。

 来年も発信を続けますので、よろしくお願いします。

 デイリー新潮「アフガニスタン 日本人記者が『地下学校』に潜入取材 タリバンの女子教育禁止に広がる抵抗」

www.dailyshincho.jp

 

 高世仁のニュース・パンフォーカス「アフガニスタン・リポート① 経済崩壊で危機に立つカブールの市民たち」

www.tsunagi-media.jp

 

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 いのちには終る時ありそれ故に互いの“今”をいかしあひたし
 
 5月に亡くなった遠藤滋さん(享年74)は、脳性まひで歩行や会話に不自由を抱えつつ、学生運動や社会活動に積極的に参加。病が進行するなか、50代半ばになって短歌を詠み始め、介助者がかすかな声を聞きとってパソコンに入力していった。今から一年前の去年12月、最初で最後の歌集『いのちゆいのちへ』が刊行された。そのあとがきに遠藤さんはこう記した。

 「『自らのいのちをいかすこと』。これはなにも障害をもつ者に限らずいえることではないか。だとしたら、なんという奇跡だろうか」。
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 今月亡くなった渡辺京二さんの言葉が朝日新聞朝刊の『折々のことば』に取り上げられていた。

自分が住んでいるところが、自分が世界と向き合っているところが接点だからね
               渡辺京二

 明治になるまでは、「できるやつ」は江戸に学問に行っても、やがて国に戻り、塾を開いて後進の指導にあたったものだと、熊本在住の評論家は言う。東京という〈中心〉を経由してではなく、自分が今住んでいるその場所で世界とじかに向き合う仕事をしなければならない。拠点をもつというのもきっとそういうことなのだろう。坂口恭平との対談(「アルテリ」14号)から。(10月7日)

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 今年も一年、読んでいただきありがとうございました。
 よいお年をお迎えください。みなさまの安寧をお祈りします。

 

嘘の上に立つ偽りの帝国(ランズベルギス)

 きのうの映画『ミスター・ランズベルギス』について補足。

独立を宣言するランズベルギス。

 ランズベルギスがソ連に独立を迫った時に前面に押し出したのが、独ソ不可侵条約の秘密議定書だった。「独ソ不可侵条約」とは1939年8月23日にナチス・ドイツソ連の間に締結された不可侵条約で、激しく対立していたはずの2国が手を結んだことは世界を驚かせた。

不可侵条約に署名するモロトフ外相。後列右から2人目が上機嫌のスターリン。(wikipedia)

 日本は当時ノモンハン事件の最中でソ連と戦闘を行いつつ、日独同盟の締結交渉中で、平沼騏一郎首相は「複雑怪奇な新情勢」に衝撃を受け内閣は総辞職した。

 問題はこの条約と同時に、東ヨーロッパとフィンランドをドイツとソ連で分けあう秘密議定書が締結されていたことで、これにもとづいてリトアニアソ連が占領した。

 この議定書の存在を認めたくないゴルバチョフに、リトアニア側が、歴史的事実をもって、ソ連によるリトアニアの併合自体が無効だったと認めよと迫るのはこの映画の見どころの一つだ。リトアニアは科学と倫理という非暴力でソ連を圧倒していた。

 もう一つこの映画で印象に残るのは、リトアニア独立が引き金になってソ連邦解体が進んでいくが、権力の巨悪の部分が残ったままになったとサンズベルギスは指摘していること。リトアニアへの軍事介入を押し進めた勢力(最終的にはゴルバチョフがOKしたのだが)は処罰されないままだったし、ロシアで反動派の8月クーデター(91年8月)が鎮圧されてもエリツィンはその首謀者たちを徹底して処分しなかった。その勢力は今のロシアで「続いている」とランズベルギスが言う。今のプーチン体制にも根底でつながっているのではないか。これはロズニツァ監督の一貫した問題意識でもある。

8月クーデターに反対して立ち上がったロシアの市民たち。こんな時代があったなんて・・

 最後に、映画の中でのランズベルギスの印象的な語りを紹介しよう。(パンフレットで想田監督が引用していて助かった)ソ連共産主義とは何か、さらには権力とは何かの核心をついている。

ロズニツァ監督「なぜ彼らはペレストロイカを打ち出したのか?」

 これに対してランズベルギスが答える。

《そもそも彼らが望んでいたのは、いかにこのまま永遠にこの領土を支配していくか。これは人類最大の過ちの一つかもしれない。だが非常にはっきりしていた。ロシア国内、つまり当時のソ連では、最高の価値とは何かに対する権力だった。小さな人々に対する権力。第一に国土に対する権力、領土に対する権力だ。そして〈国家〉と呼ばれる組織の意味は、その領土を拡大させ、不動にすることだ。国歌などでも高らかに歌われてきた。〈不動だ〉とか〈永遠に〉とか。〈レーニンは永遠に〉〈ナンセンスが永遠に〉〈その他一切は忘れなさい〉〈その他一切〉は悪だから。もし悪に仕えるなら、頭の中だけであろうとすでに敵である。何の敵か?我々の敵だ。我々は人民だ。人民の敵だ。もし政府の指示と異なる考えなら、政府だけでなく人民の敵だ。政府は人民の名で活動しているのだから。あたかも人民であるかの特権を自らに与えたから。これは根本的な嘘だ。今も生き延びている偽りの帝国も、そんな根本的な嘘の上に立っている。》

 読むうちに世界の権力者たちの顔が浮かんでくる。
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 渋谷の「イメージフォーラム」でこの映画を観たのだが、同時上映中に『浦安魚市場のこと』があった。千葉県浦安市の1953年(私の生まれた年だ)創業の魚市場が2019年3月に閉場したのを追った映画で、監督は歌川達人さん。歌川さんは、私がプロデュースしたカンボジアの絹絣を復興した森本喜久男さんの「情熱大陸」で撮影を担当してくれたご縁がある。最近テレビを制作していた知り合いが次々に映画を監督している。テレビがどんどん面白くなくなっていることに比例する動きのように思う。こんど観に来よう。
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 ゼロコロナ政策を緩めたら、またたく間に感染爆発が起きている中国だが、コロナ対策への不満に火が付いたきっかけは、新疆ウイグル自治区でのアパートの火事だった。当局の厳しい地区封鎖で、消防車が入ることができず消火活動が遅れたことが多くの犠牲者が出る事態になったという情報がSNSで広まったとされる。

 この火事によって、何年も音信のなかった家族の消息を知ったウイグル人がいる。

 以下、NHK「国際報道」より。

 トルコのイスタンブールに暮らすムハンメット・メメットアリさん(22)は、6年前からトルコに住んでいる。イスラム教の聖典コーランを読むと連行されるなどウイグルの人たちを取り巻く環境が厳しいことから、姉とともに民族的にも近いトルコに移り住んだのだ。

メメットアリさん(NHKより)

母と4人のきょうだいが亡くなったとの知らせが、6年ぶりの家族の消息となった(NHK

メメットアリさんがトルコに出たあと、父と兄が拘束された(NHK

 ところが、メメットアリさんがトルコに出たあと、父と兄が中国当局に拘束されたと知人が知らせてくれた。姉とともにトルコに渡ったことが当局に問題視されたのだろうという。

 その後、家族とは6年間まったく連絡が取れない状態が続いた。連絡をとったと当局に知られたら、家族は刑務所行きになってしまう。そこに6年ぶりに届いた家族の知らせは、母と幼い4人のきょうだいたちが死亡したという信じられないものだった。

 「消防署も病院も近かったのになぜ助けられなかったのか中国政府に釈明してほしい」とメメットアリさん。それと同時に、日本をふくめ、世界がウイグルの問題で声を上げてほしいという。

イスタンブールでの中国に対する抗議デモ(NHK


 日本のマスメディアは、最近のウクライナ問題は大きく取り上げるが、ウイグル問題は弱い。人権抑圧の程度はジェノサイドとも表現されるほどひどい。忘れることなく、ウイグルの人々と連帯しよう。

 

映画「ミスター・ランズベルギス」を観て

 仕事が一段落したので、映画『ミスター・ランズベルギス』を観に行く。

政治家なんかになるつもりはなかったと語るランズベルギス氏(映画より)

 「リトアニア独立の英雄ランズベルギスが語る熾烈な政治的闘争と文化的抵抗の記録」で上映時間は4時間を超える。観るには覚悟がいる。

 ソ連邦から最初に独立を宣言したのはリトアニアだった。
 1990年3月11日、最高会議で「リトアニア国家再建法」を賛成124票、反対0、棄権6で可決し独立を宣言する。

共産党員としてはじめて最高会議議長に就任したランズベルギスが独立を宣言した(映画より)


 ゴルバチョフはこれを認めず、リトアニアを経済封鎖し、さらに91年1月には軍事介入に踏み切った。市民は最高会議やテレビ塔などの前に集まり人間の盾となってソ連軍に抵抗した。ソ連軍が民間人に発砲し死傷者も出た。(血の日曜日事件

 ゴルバチョフに対する「善人」イメージがこなごなになる。言論の自由を多少認めたが、ソ連邦という体制をひっくり返す気はなかった、むしろガス抜きして体制を擁護しようとしたことが明らかになる。

 こうした弾圧にも人々は屈せずに91年9月、ついにソ連に独立を認めさせた。このリーダーが、ピアニストで国立音楽院の教授だったランズベルギスだった。ソ連軍の介入に対して、最高会議を守るために志願兵をその場で募りバリケードを作るなど防衛態勢を立ち上げるが、大きな戦闘は起きず、多くの市民がソ連兵の前に立ちはだかって軍事行動を封じる非暴力的闘争が大きな役割を演じた。

 映画はランズベルギスの語りにアーカイブ映像で歴史の流れをたどっていく。この歴史自体がドラマチックなので引き込まれていく。
 軍隊まで派遣して独立を封じようとしたゴルバチョフノーベル平和賞を受賞し、その一方でリトアニアの人々がソ連軍に「ファシスト!」と罵声を浴びせるシーンは、それだけで歴史の「真実」を訴えかける。

ゴルバチョフは軍隊を送って弾圧しようとした(映画より)

 ランズベルギスという人物がまた実に魅力的で、もとはピアニストで活動家っぽくない。人情味があってかつ冷静沈着。これなら苦境のときでもみんながついていくだろうなというリーダーなのだ。
 この映画は歴史の記録であるとともに、ランズベルギスというとても魅力的な人間の肖像でもある。

 危機や混乱のとき、歴史はすごい偉人を生み出すことがあるが、彼はまちがいなくそういう人だ。90歳なのに若々しくウィットに富んだ話しぶりがいい。

 監督はセルゲイ・ロズニツァで、1964年ベラルーシ生まれ。ウクライナキエフで学び数学士の資格をとり人工知能の研究をしていたという。91年のソ連崩壊の年からモスクワで映画を学び始めたという異色の経歴をもつ。
 私は今年『ドンバス』、一昨年『アウステルリッツ』、『国葬』、『粛清裁判』を観ていずれも素晴らしかった。

takase.hatenablog.jp

 

 ロシア(ソ連)が他民族を支配しようとありとあらゆる手段で介入し、それに「自由」を合言葉に人々が抵抗する姿・・・この映画を観ると、誰もがウクライナを思い浮べると思う。映画ではおもに「非暴力」での抵抗が描かれる。

 いま、国防をめぐる政策が注目されるなか、ランズベルギスの見事な外交力、政治力と独立までの一連のせめぎあいは、今後の日本の進路を構想するうえで非常に参考になる「教材」だと思う。その意味でも多くの人に観てほしい映画だ。

 リトアニアは行ったことがある国だが、知らないことが多く、勉強しようと思って映画のパンフレットを買った。

 このなかで一つ引っかかったのは、映画監督の想田和弘が「たとえ強大な軍事力を有する帝国主義的大国であっても、非暴力の政治闘争で打ち負かすことができる」こと描いた映画だとし、「私たちが目指すべきは、米国やロシアや中国といった軍事大国ではない。理不尽な力に対して力で対抗することを選んだ、ウクライナでもない私たちがお手本として研究すべきは、非暴力で独立を果たしたランズベルギスとリトアニア国民であろう」と主張していたことだ。

 「ウクライナも非暴力で抵抗せよ」とは想田氏の持論だが、ランズベルギスは同じパンフレットの沼野充義氏との対談で、ウクライナについていま「平和条約」を言うべき時ではないとし、こう語る。

「今軍事行動をなんとか止める交渉を始めなければならないなどと言うのは、欺瞞です。なぜなら、攻撃を仕掛けた国、つまり侵略者は、広大な領土を占領し、諸都市を破壊し、何十、何百、いや何千という人々をウクライナの地から追い出したのです。それを今ここで止めて凍結させるなんて、強盗の収穫、追剥の収穫になってしまうでしょう」

NHKニュースより

 また、NHKのインタビューでランズベルギスはこう語っている。

「武力で屈強な巨人(ソビエト)に対抗するのは絶望的でした。自殺行為のようなものです。しかし道徳的な方法で闘うことは効果的でした。ソビエトは軍事力を行使したことで世界を前に苦しい立場に立たされたのです。“リトアニアが武力を使うので私たちもそれに対抗している”とは主張できなかったのです。」

 リトアニアでは非暴力で成功したが、ウクライナでは困難だと彼はいう。それは当時リトアニアが対峙したゴルバチョフウクライナを攻撃するプーチンには決定的な違いがあるからだ。

「(当時は)平和的な言葉で自分の主張ができました。ゴルバチョフの周りには民主主義的に考えている側近がいたのです。プーチンの周りにはこのような側近がいません。民主主義を考えている側近が全滅させられています。絶対的な独裁者として行動するよう助言する側近ばかりです。」

 また、90年当時は「50万人のモスクワ市民がリトアニアを守る抗議デモに参加しました。今日では全く想像もできませんウクライナへの侵攻に対し、モスクワでデモに参加する人は5人もいないでしょう。当時は正義の考え方を持っていたロシア人がたくさんいました。彼らはリトアニアへの侵攻をやめるよう求めていたのです。」

 安全保障、国防というのは「相手」がある。闘いの手段、方法は、敵がどのような相手か、また具体的な条件や状況のなかで柔軟に考えるべきだろう

 なお、血の日曜日事件をたまたま居合わせた日本テレビのクルーが撮影しており、ディレクターは私もよく知る中山良夫さんだったこと、この映画にもその映像が使われていることをはじめて知った。

 銃弾の飛び交う現場での撮影は怖くなかったかと聞かれ、中山さんに同行したビデオエンジニアの石渡さんが「大勢の市民が何も持ってないのに、ソ連軍に向かって『帰れ、帰れ!リトアニアリトアニア!』と叫んでいるのですよ。しかも僕らより前線で。(略)僕らより危険な場所で大勢の市民が集まって声を出して抗議しているので、全く恐怖はなかったですね。兵士が機関銃で威嚇射撃をしても、戦車が空砲を撃って体が宙に浮いても、市民の人たちは全くびくともしないのですよね。その中にいたら自分たちも何も怖くなくなるのです」と答えているが、非暴力抵抗自体が、体を張ってあくまで闘い抜くという市民たちの強い決意に支えられていることがわかる。

(つづく)

原発政策の転換に怒る被災者たち

 日本の原子力政策が大きな転換点を迎えている。

 8月の脱炭素社会実現に向けた政策を検討する「グリーントランスフォーメーション(GX)実行会議」あたりから急に原発回帰に舵を切り始めた岸田政権だが、「最長60年」だった原発の運転期間を延長し、廃炉になる原発の建て替え推進にまで踏み込んでいる。

 岸田文雄という人、正体が分からなくなった。
 宏池会ということもあって、いくらなんでも安倍・菅政権よりはマシだろうと期待したのは私だけではないと思うのだが、統一協会にしろ防衛政策にしろ、国の“おおもと”にかかわるところで有害無益な対応を繰り返している。“聞く耳”がどうのこうのと言っていたのに、国民の声をこれほど無視して悪政を続けるとは・・。
 岸田内閣打倒!のスローガンに共鳴する。

 先日、テレビのニュースに懐かしい人が出ていた。
 山本三起子さん。原発事故で被災した大熊町の人で、会津若松市に避難生活を送っている。

山本三起子さん(NHKニュース)

 岸田首相の原発政策について、新橋駅あたりでインタビューされたサラリーマンの「使えるもの(原発)は使った方がいいんじゃないすか」とのとぼけた感想に続いて、山本さんが「納得出来ません」とNOの立場から意見を言っていた。

《当時、福島第一原発が立地する福島県大熊町で暮らしていた山本三起子さん(72)は、原発事故のあと、120キロ以上離れた会津若松市に避難しました。自宅があった地域は、ことしの夏、ようやく避難指示が解除されましたが、生活の基盤が整わないことなどから今も家族とともにふるさとを離れて暮らしています。

 原発事故によって元あった暮らしを失った立場から、原発の新設・増設などへ舵を切った政府の方針には納得できないといいます
 山本さんは「本当に想定外の話です。今も事故で避難している人がいる中でなぜこうなるのか。政府の原子力政策がころころ変わり、電源喪失や水素爆発のことも忘れてしまっている。デブリの取り出しも何も解決しておらず、再稼働には納得できません。私たちの気持ちと政府の方針がかみ合わず理解してもらえていない」と胸の内を明かしました。 

 そのうえで「ウクライナでの戦争に伴うエネルギー事情は理解できますが万が一、事故が起きた場合の代償は大きい。福島はもちろん、全国の原発立地地域の人たちはもっと怒りの声を上げていいのではないか」と話していました》(NHKニュースより)

www3.nhk.or.jp

 

 山本三起子さんを『ガイアの夜明け』で取材したのは2013年。
 大熊町で「これ以上の幸せはない」という暮らしをしていた彼女、「原発事故で、天国から地獄に落ちたのよ」と語っていた。
 彼女のことはかつて匿名で書いた。

takase.hatenablog.jp

《避難してしばらくすると、味覚がおかしいことに気づいた。味がわからなくなったのだ。ついで、耳が聞えなくなった。視覚異常も出てきたある日、急に立てなくなった。車椅子で病院に運ばれ、脳のスキャンを受けたが異常なし。結局、「うつ病」の一種という診断で、今も治療中だ。とても元気に受け答えをする人で、一見「うつ病」とは無縁に思うが、それは「薬を飲んでるから」だという。》

 原発事故は、避難した後がむしろ大変で、あれから10年以上たった今も被災者たちの苦しみが続いていることを忘れないようにしたい。

 それにしても山本三起子さんのお顔を拝見できてよかった。お元気に見えたが、いまもうつ病の薬を飲んでいるのだろうか。

渡辺京二さんの訃報によせて

 渡辺京二さんが亡くなった。お歳だからいつ亡くなってもおかしくないと思いつつ、訃報を聞いて心ががっくりと萎れる感じがした。

かっこいい人だったなあ。きっとモテただろう。(致知より)

 私にとっては、尊敬し仰ぎ見る偉人だった。「巨星墜つ」という表現があるが、この人ほどの知の巨人はもう日本には現れないのではないか。心を病んでしまったようなこの日本がこれからどう歩んでいけばいいのか、もっとお聞きしたかった。

 数年前、お会いできるチャンスがあったのだが、急な仕事ができて逃してしまったことが残念でならない。多くのことをご教示いただいたことに感謝するとともに、心よりご冥福をお祈りします。

 西日本新聞の訃報記事
熊本市在住の評論家で「逝きし世の面影」などの著書で日本近代を問い続けた渡辺京二さんが25日午前10時15分、老衰のため熊本市の自宅で死去した。92歳。京都市出身。葬儀・告別式は27日午後1時、熊本市東区健軍4の17の45、真宗寺で。喪主は長女・山田梨佐さん。
 渡辺さんは中国・大連で育ち、旧制第五高等学校を経て法政大社会学部卒。日本読書新聞を経て、熊本市で著述活動に入った。宮崎滔天北一輝の評伝をはじめ「神風連とその時代」「日本コミューン主義の系譜」などの著作で大アジア主義や戦争、ナショナリズムなど日本が近代化の過程で抱えこまねばならなかった難題を考察した。
 1998年には、幕末維新に来日した外国人の滞在記などから日本近代が滅亡させた前近代の豊穣な文明を描く「逝きし世の面影」を刊行。和辻哲郎文化賞を受賞した。2010年には、ペリー来航の100年以上前から北方の蝦夷地で繰り広げられたロシア、アイヌ、日本のダイナミックな異文化接触を描いた「黒船前夜」で大仏次郎賞。
 編集者としても、詩人で小説家の故石牟礼道子さんの才能にいち早く注目し、水俣病に苦しむ患者の世界を描いた「苦海浄土」の初稿を自身が編集する雑誌「熊本風土記」に掲載。生涯の思想的・文学的盟友として創作活動を支え、水俣病闘争にも共に参画した。河合塾福岡校講師や熊本大客員教授も務めた。
 本紙には1999年に随筆「江戸という幻景」を連載。「西日本文学展望」も担当したほか、大型コラム「提論」も執筆した。》

 

本に囲まれた渡辺さん。この書庫を見たかった。

追悼記事には―
《死去した渡辺京二さんは、熊本の野にあって日本近代を問い続けた評論家だった。その思想的フィールドは広大にして射程深く、切れ味は抜群に鋭かった。それ故、ステレオタイプの見方や表層の解釈を嫌い、人物的には時に気難しくもあった。》(西日本新聞)とある。

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 このブログでも、読者があきれるほど頻繁に取り上げた。例えば―

takase.hatenablog.jp

 

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 いまアフガニスタン取材のまとめでせわしくしているので、渡辺さんについてはいずれまた書こう。三浦小太郎さんが渡辺さんについておもしろい論説を書いていたので、紹介しよう。

 三浦さんには渡辺さんの全著作を読み込んで彼の思想の全貌にせまる『渡辺京二』(2016)という著作がある。こんな偉大な思想家によくもまあ、正面から挑んだものだなあと感心した。出版後、三浦さんと飲んで渡辺京二論を話し合うのが楽しみだった。
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 渡辺京二氏を追悼する番組や記事などが出ているのはうれしいし、また新たな読者が増えてほしいと思うのですが、一点、ちょっとどうしても違和感があるのは「水俣病闘争の支援者だった」的な解説が結構あること。

 いや、それはその通りで、この方は水俣病患者たちとともに最も激しく戦った人ではあるんですよ。ただ、これまで水俣を報じる最近の記事の中では、むしろ無視されてきたような気がする。それはある時期から運動から離れただけではなく、運動の最も高揚期にも次のような文章をはっきり書いていたからで、今更なくなったからって持ち上げるなら、以下のような文章をきちんと評価してほしい。

チッソを特別に悪質な資本であるかのように考える必要はない。したがって(患者と会社との)対立を資本の倫理的な悪と民衆の倫理的な善との対立とみなすこともできない。」

「(水俣を訪れる知識人が)水俣を自分たちの(精神的な)病に合わせて聖地のように賛美するのは、ほとほと滑稽な眺めであった。のみならず、そのような水俣礼賛を、今はやり文明終末論的考察の端切れや、聞きかじりのエコロジーや、ナロードニキ(民衆礼賛)趣味の辺境論議で思想めかすような言辞を見聞きするたびに、私は心中、暗い嘲笑のごときものが突き上げてくるのを抑えることができなかった」(死民と日常)

水俣病闘争の当事者は、患者とその家族たちである。それ以外のものは、絶対に当事者ではない。(中略)支援という言葉はよくない、我々は自分のこととして、水俣病闘争にかかわるものである、というものがある。気持ちはわかる。だが、君は水俣病患者ではなく、水俣病がわがことであるはずはない。」

水俣病患者を見過ごすことは、自分の人間的責任の問題だというものがいる。しかし、およしになったがいい。水俣病は人類の唯一の悲惨事ではないのだし、人類はそのような過剰な責任を負うことはできない。」

「(人間が何らかの運動にかかわる理由は)思想的なものではなく、あくまで個々人の人事的偶然であろう。日本の諺は言う『袖ふれあうも他生の縁』と。水俣病と自分がかかわるというのも、まさに他生の縁にほかならない。その袖は何によって触れ合うのか。(中略)それは人におのずから備わる惻隠の情による。」

水俣病闘争の中では、患者に対する同情に終わってはならないということが繰り返し言われてきた。そのことの意味は分かるので、私はいつも黙っていたが、心中では同情で何が悪いと叫んできた。(中略)水俣病患者はかわいそうだ、という活動家たちが最も唾棄する心情も、それが徹底して貫かれた場合は、おそらく活動家たちが夢想もできないような地点まで到達する。」(現実と幻のはざまで)

 渡辺氏は石牟礼道子氏の名作「苦界浄土」にも編集としてかかわりましたが、この本を、いわゆる反公害運動のルポのように読まれることには一貫して反論し、むしろこれは言葉の最も正しい意味で文学作品であることを強調し続けました。

 ここで引用した言葉も、「水俣病階級闘争であり日本資本主義との戦いだ」「美しい水俣の自然が汚されている」「チッソは悪魔企業」のような運動家たちの言説に対し、何もわかっていないと批判したものです。運動のさなかにこれだけのことをかけるのは正直すごいことで、この人がオルグとしても活動家としても一流の才能を持っていたことを逆に表していると思います。(三浦さんのFBより)

タリバンが女性の大学通学も禁止

 きのうの畑は一面、霜柱。

3センチもある霜柱が畑一面に

 玉ねぎの根本にはホトケノザ。冬のなか、生命力を見せつけている。
 寒かったが、秋じゃがを掘り起こしていたら汗だくに。いい運動になった。コロナからほぼ完全に復帰したようだ。

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 アフガニスタンタリバン暫定政権の高等教育省が20日、女性が大学に通うことを停止するとの通知を出した。通知書には、全ての公立・私立の大学や専門学校において、「次の通知があるまで女性への教育は停止される」と記載し、即日の実施を命じている。

22日朝日新聞朝刊

 昨年8月に権力を握り返したタリバンは、日本の中高生にあたる7年生から12年生までの少女の通学を禁止したが、小学校や大学の再開は認めてきた。

NHKニュースより

 この国では小学校でも男女別学であり、女子児童は女性教師にしか教わることができない。また、女性が病気になったり怪我をした場合は女医にのみ診てもらうことができる。だから、女性教師や女医など一定数の女性専門職は社会を回していくためには不可欠である。タリバンは政権内に高等教育省を置き、男女の教室を別にするなどの条件の下で、女子が大学で学ぶことを認めてきた。

去年、今年と10月の大学入学試験は女子も受けることができた(NHK

 しかし、中等教育を禁止しておいて大学はOKというのは、システムとして支離滅裂である。何らかの整合性ある措置が出されなければなかったが、中学高校ばかりか大学も禁止と、きわめて極端な決定になった。

タリバン最高指導者アクンザダ師の決定とされている

 私が先月取材した「地下学校」は、学校に行けなくなった少女たちの受け皿だった。100名を超す生徒たちが「修了式」で一堂に会する映像を撮影することができた。

takase.hatenablog.jp

「地下学校」には大きく2つの種類がある。一つは、個人の自宅などでひっそりと少人数を集めて、学校の科目を教えるもので、存在自体が秘密にされている。一方、修了式を取材した「地下学校」は、タリバン政権から「専門学校」の認可を得ている。表向きは女性が編み物や刺しゅう、コーランなどを学ぶ学校ということになっているのだが、それは「隠れ蓑」で、女子が学ぶことを禁止されている英語や数学、物理、歴史など中等教育の教科も教えているのだ。希望者が殺到し、先日三校目の「分校」を開校したと映像を送ってくれた。「学校」は拡大を続け、生徒数は千人を越えた。タリバンの子弟まで通ってきているという。

地下教室の授業風景(独自取材)

 この「地下学校」は、大学進学を目指して勉強に励んでいた生徒が多い。今年10月の大学入試では、この学校から25人の合格者を出したばかりだった。来春からの大学生活を楽しみにしていた少女たちの顔が思い浮かぶ。どんなにか悲しみ、怒っていることだろう

続けて「タリバンの責任を追及するために(アメリカに)何ができるのか検討する」と

つづけて「女性の参加と教育なしに国がどのように発展し課題に対処していくのか、想像するのは難しい」と(NHK

 毎日、カブールと連絡をとっているが、私が取材させてもらった「地下学校」の関係者や女生徒からは「もう、おしまい。夢も希望もなくなった」との悲痛な声を聞く。女子への大学教育の禁止から「地下学校」の弾圧へと進むとの見方も出ている。取材先の彼女らの今後が心配だ。

 また、女子教育をめぐる問題は、国際社会によるタリバン政権を承認するか、逆に制裁を続けるかということに直結する。今回の女子への大学通学の禁止措置でタリバンと国際社会とのせめぎあいが新たな段階に入った。

アフガンで亡くなった南条直子さんのこと

 あさっては冬至だ。うちの万両も赤い実をつけた。

 東京は氷点近くまで冷え込み、東北、北陸は大雪だという。山形県大蔵村肘折(ひじおり)が積雪231センチとニュースに出ていた。今秋の山形一周自転車の旅で10月1日に肘折温泉に行ったっけ。またやりたいな、自転車旅。

 22日から初候「乃東生(なつかれくさ、しょうず)」。ウツボグサが芽を出すころ。   27日からが次候「麋角解(さわしかのつの、おつ)」ヘラジカの角が生え替わるころ。
 1月1日から末候「雪下出麦(ゆきわたりて、むぎのびる)」降り積もった雪の下で麦が芽を出し始める。

 冬至からだんだん太陽が復活していく。一年の出発点でもある。「一陽来復」だ。
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 少し前の話になるが、12月7日、東京外語大の「日本:灰と瓦礫からの復活」上映会を観に行った。

右が脚本のマスリさん、左が撮影のフセインさん、中央が篠田教授

 シリアからの留学生2人が制作したドキュメンタリー映画2本「広島:世界最悪の核攻撃」と「陸前高田:3.11からの復興」を鑑賞し、脚本・編集のモハマド・マスリさん、撮影のマフムド・シェイク・フセインさん、二人の指導教授だった篠田英明さんと3人でトークをするというプログラムだった。

 映画には文化ショックを受けた。原爆と自然災害と原因は違うが、どちらも壊滅的な破壊を受けたあと、どうやってみごとに復興していったかという成功物語として描いている。その復興過程から学べるものを探そうという思いが強く伝わってくる。

 日本人はこういう視点ではぜったいに描かないし、描けない。

 この2本は、彼らが見るも無残に破壊しつくされたシリアをどうするかという問題意識から作っている。シリアもこうやって必ず復興できるから、絶望しないようにしようと自らを鼓舞しながら制作したのではないかと推測する。

 危険地の取材をどうするかという問題で、日本人ジャーナリストが行かなくてもいいじゃないか、どこか外国の通信社が送ってくる情報で済むのではないかという声が出てくる。

 二人の映画からは、その人のバックグラウンドによって、つまり日本にベースをおく人とシリア出身の人では問題意識が全く異なることを見せつけられた。もっと平たい言葉で言えば、あるものを見たときのおもしろがり方が違うのだ。

 ジャーナリズムのあり方を基本から考えさせられた。
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アフガニスタン・リポートつづき

12月5日。

 今夜のBS11の生放送ではアフガニスタンに同行した遠藤正雄さんがスタジオで語ります。

 遠藤さんは日本のジャーナリストとしては、もっとも危険な現場を歩いてきた一人で、現役唯一のベトナム戦争取材体験者。

 自らを売り込まない人なので知名度は高くありませんが、すごい人なのです。

 彼が執筆者の一人として編まれた『A LINE 地平線の旅人』(江本嘉伸、戸高雅史と共著)という本があります。「旅」を大きな地球体験ととらえるなかで、遠藤さんは「戦場」というフィールドの旅を「死」をキーワードに生々しく描いています。

A LINE

遠藤さんの記事。血なまぐさい戦場の写真も

 その中に、11月27日の投稿で紹介した遠藤さんの従軍体験と南條直子さんの死について書いた箇所があります。当時の雰囲気も伝わってきます。以下引用。

パキスタンの古都ペシャワールカイバルホテルという怪しい安宿がある。このホテルは、1979年、ソ連軍のアフガニスタン侵攻から89年の撤退まで、多くのフリーランスのジャーナリストをアフガンに送り出した。彼らの写真の多くが、『ニューズウィーク』や『タイム』のページを飾っていた。逆に帰らぬジャーナリストも数多くいた。その中のひとりが南条直子さんだった。彼女は、不幸にもその帰らざる一人になってしまった。

 1989年10月、私はジャララバドハイウェイを見下ろすタンギにいた。その冬2回目の従軍で、アフガニスタン政府軍とソ連軍が敷設した分厚い地雷原を抜け戦闘配置に着いた。その時思った。この地雷原で南条さんは地雷に触れ命を落としたのだ、と。彼女の死は、即死ではなかったと聞く。苦痛と死の重圧に苛まれたに違いない。もし意識がはっきりあり、死を恐怖と捉えていたならば、辛い死だったろう。

 ゴルゴダイ(花)と呼ばれた南条さんの墓は、墓地から一つだけ離れてジャジのゲリラ墓地にある。その墓のすぐ隣に落ちたスカッドミサイルは、南条さんの死の眠りを妨げるように巨大なクレーターをつくった。その振動と爆風で墓標が傾き、墓の一部が崩れていた。南条さんは、死の瞬間何を思い、何を見たのだろうか。南条さんの墓標は、日本人の武道家が立てたものだ。その脇には、彼女が運ばれたロープで編んだ血染めの担架が打ち捨てられていた。」

 何人もの知り合いの死を間近で見てきた遠藤さんの、重い戦場の「旅」の記録です。

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 このあと、私は「南条さんの墓標を立てた武道家」に電話して事情を聞いた。彼は私の古い知り合いだった。

 彼は南条さんとパキスタンペシャワールの宿で知り合い、「もう一度アフガンに入る」という南条さんと別れて帰国したら、幾日もたたないうちに南条さんが亡くなったニュースを知ったという。

 彼がアフガンに戻ったときにはすでに南条さんは埋葬されていたので、丸太を調達して名前を刻んで立てておいた。その2年後にご両親もともなって何人かで現地に向かい、遺体を掘り起こして火葬し、遺骨を持ちかえった。このとき、日本から持って行った墓石をたてた。
 その後、その墓石が破壊されたので、ふたたび日本から有志が行って、セメントでしっかりかためて墓を作り直したという。つまりお墓は3回作られたことになる。

 これでアフガン・リポートは終わります。お読みいただきありがとうございます。

今回のお土産で買ってきたバルフ地方のアンティークじゅうたん