日本人はなぜ「やさしくない」のか

 きょうは寒かった。

 東京は最高気温が3度までしかあがらず、これは19年ぶりだという。つまり20年に一度の寒い日だったわけだ。

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うちのデッキに積もった雪

 昼前から雪も降った。気温が低いので、びちょびちょにならず、夜まで残っている。明日朝は確実に零下で、地面が氷になりそうだ。自転車はやめておこう。

 コロナのオミクロン株が猛威を振るいそうで、ここ数日の感染者の激増は驚くばかりだ。
 東京都内の6日の感染確認は641人で、1週間前の木曜日の64人のおよそ10倍。年齢層も10歳未満から100歳以上までと広い。1日の感染の確認が600人を超えるのは、去年9月18日以来だという。
 もっとすさまじいのは沖縄で、6日の感染確認は981人で過去最多。
 問題は米軍。成田空港でいくらがんばっても、米軍が、まともな検疫をやらず、クラスターになっている基地から米兵を自由に外出させているのだから、ダダ洩れだ。

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6日朝日新聞朝刊

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6日テレ朝「モーニングショー」

 まずは米兵の検疫を徹底させ、基地の外に出さぬよう要請し、そのうえで、世界一従属的な日米地位協定の改正にすぐに取り掛かるべきだ。

 「共有する民主的な価値観」などという前に、米国にちゃんと主権を尊重させないと。
・・・・・・・

 近年の日本のありさまにはがっかりすることが多い。どうしてこういう国になったのか。これを考えるために、国を構成している我々日本人がどうなっているのかを、国際比較で見てみたい。自分たちが何者かは、外から見ないと分からないからだ。
 
 一つ気になる特徴として、どうも日本人は「やさしくない」ようだ。少なくとも国際比較ではそういう結果が出ている。

 英国の慈善団体Charities Aid Foundationが公表する「世界寄付指数」(World Giving Index)では、過去一カ月に、①見知らぬ人を助けたか、②慈善活動に寄付をしたか、③ボランティア活動をしたかの3項目を144カ国で質問し、その回答をランク付けしている。
 2018年版では、日本は①の人助けが142位、②の寄付が99位、③のボランティアが56位で総合順位は144カ国中128位。先進国といわれる国の中では最下位だ。

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98位以下の順位。日本は総合で128位。caf_wgi2018_report_webnopw_2379a_261018.pdf (cafonline.org)

 『やさしくない国ニッポンの政治経済学』(講談社)の著者、田中世紀氏によると、日本人は他人に冷たい傾向が、他の調査でも見られるという。

 「政府は貧しい人々の面倒を見るべきか?

 これは、世界47ヵ国を対象にアメリカのPew Research Centerが2007年に行った調査の質問の1つだが、この質問に「同意する」つまり面倒を見るべきだと答えた人の割合が、日本は59%で世界最下位だった。ちなみに最も高かったのはスペインで96%、英国は91%、中国は90%、韓国は87%だった。

 4割の日本人は、貧しい人や困っている人を自分で助けないばかりか、公の力で助けることにも同意していないことになる。

 「社会の多くの人は信頼できるか?」

 これは、このブログでもよく取り上げてきた「世界価値観調査(World Values Survey)」が2019年に行った調査にある質問だが、「信頼できる」と答えた人の割合は、オランダでは58.5%、ドイツでは41.6%だったのに対して、日本では33.7%。しかも、「信頼できるか」どうかの対象を「他国の人」に変えると、オランダの15.4%に対して、日本はわずか0.2%しかない。日本人は日本人同士でも信頼していないし、他国の人はほとんど信頼していない、ということになる。

 これをどう解釈すればよいのか。

 その前に、みなさん自身はこれらの質問にどう答えますか?

(つづく)

 

事始めは観劇―芝居で近代化を問い直す

 明けまして、おめでとうございます。

 新年の事始めは、例年水族館「さすらい姉妹」の路上公演の観劇だが、今年は羽村市のお寺の境内で「のざらし姫」を観た。

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2日の夕方。東京からは夕陽が富士山に沈む美しい光景が見えた

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ステージは羽村市の宗禅寺の境内で3日14時から

 去年はコロナ禍で中止だったので2年ぶり。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20200104

 座長の千代治が「出雲の阿国」役で、彼女をとりまくかぶき者たちが奇想天外なストーリーで笑いをとる。慶長年間から皇紀2600年に時代がワープし、芸人たちは戦地慰問に中国大陸へ。そこからさらに武漢で正体不明の感染症発生と現代に飛ぶ。バテレン癲狂院731部隊、ブルシットジョブなどの言葉が飛び交って、時空を超えてのアナーキーな舞台に笑ってしまう。

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ミスワカナのように戦地慰問で人気者になろうぜ」。近代史の勉強になる・・

 ここ数年、抑圧と諦めが人びとを内向させ、寄る辺なく沈み込んでいくような雰囲気が社会に蔓延しているような感覚がある。

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今回の劇は序章で、5月にここ宗禅寺で仮設小屋を建てて本格公演を予定している。

 水族館劇場の公演は、そんな空気を吹き飛ばして人間の本源的なエネルギーに気づかせてくれる。彼らの劇にいつも元気づけられている。

 座付き作者の桃山邑さんは、日雇い労働をしながら1980年に曲馬舘という劇団に入り、以降、芝居と建設現場での仕事を続けてきたそうだ。

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桃山邑さんhttps://yokohama-sozokaiwai.jp/person/16352.htmlより

 新宿・花園神社や横浜・寿町では、自分たちで巨大な仮設小屋を組み上げ、大量の水を使った大掛かりな仕掛けで楽しませてくれた。

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桃山さんはじめ役者自らが鉄パイプを組み上げて仮設劇場をつくる。

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大量の水を使う演出が劇団の特徴だ

 桃山さんは、「なぜ僕らが存在をしているのか、人が生きていくということの根本、芸能をする根本を突き詰めて考え」、「(芝居を通じて)明治から続く近代化に対する抜本的な問いなおしをしたい」と言う。
 すばらしい。日本の世直しの前提は、近代化の問い直しだと私も思う。

 そしてミドルクラスのインテリを相手にしたアングラ演劇からの逸脱をめざして、こうも言っている。

 「やっぱり水族館劇場は)人間の原始的なものに根ざしているんではないですかね。このままグローバル化が進んでお金持ちの国だけがどんどん肥え太って格差が広がっていることに、ちょっと違う方向をみんなで目指しましょうよと。政治的な主張をしたいわけではありません。自分たちが間違っているということを前提にしなければ、僕はものを言わないほうがいいんじゃないかと思います。自分たちの主張が正しいということを前提にすると、時代が変われば通用しなくなってしまう」。 

 私も今年、腐った社会状況に自分なりに問題提起していきたい。年甲斐もなく、ちょっと「弾けて」みようかと思っている。そっちのほうが楽しそうだ。

 今年もよろしくお願いします。

自由を求める世界の若者たちに連帯を!

 お知らせです。

 今年の締めの【高世仁のニュース・パンフォーカス】を公開しました。《自由を求めて早稲田が燃えた日々―「川口君事件」を振り返る》です。

www.tsunagi-media.jp

・・・・・・・

 今年は、ノーベル平和賞が言論、報道の自由のために闘う二人のジャーナリストに与えられ、バイデン米大統領が民主主義サミットを開いたことに見られるように、自由・人権をめぐる問題に焦点があたった一年だった。

 年末、今年を象徴するようなニュースが二つあった。

 29日、香港の代表的な民主派ネットメディアが弾圧され閉鎖に追い込まれた。あの民主派アイドルのデニス・ホー氏も関係者として逮捕された。

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30日朝日新聞朝刊

 独立系ネットメディア「立場新聞(Stand News)」が、幹部ら7人が逮捕されたことを受け、同日付でスタッフ全員を解雇し、ニュース配信を停止すると発表したのだ。

 「立場新聞」は、民主派メディアの中でも一目置かれ、尊敬される存在で、政府と民主派とのせめぎあいのなか、警察の弾圧の実態などでスクープを連発していた。
 私もこのメディアには注目していて、一昨年香港を訪れたとき、「立場新聞」記者の取材活動を紹介することが取材テーマの候補の一つだった。

 29日、《香港警察の国家安全当局は警官200人余りを動員し、立場新聞の編集室を家宅捜索。犯罪条例に反する扇動的な出版活動で共謀したとして立場新聞に関係する7人を逮捕した。香港英字紙サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)によれば、29日に逮捕されたのは立場新聞の林紹桐・編集長代行や最近まで編集長だった鍾沛権氏ら。

 SCMPはまた、米議会で香港の状況について証言した歌手のデニス・ホー(何韻詩)氏と弁護士で元立法会(議会)議員の呉靄儀氏も立場新聞の元取締役として逮捕されたと報道。ホー氏の逮捕は同氏のフェイスブックで確認された。

 同条例違反では、最長2年の禁錮刑と5000香港ドル(約7万4000円)の罰金が科される。》https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2021-12-29/R4UU46DWRGG501

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Denise Ho (フェイスブックより)

 デニス・ホー氏については、このブログに紹介したことがある。

https://takase.hatenablog.jp/entry/20210630

 

 6月の『リンゴ日報』廃刊に次ぐ民主派有力メディアの弾圧である。

https://takase.hatenablog.jp/entry/20210702

 《リンゴ日報の廃刊直後、立場新聞は当局の摘発を避けるため、5月以前に掲載したブログや読者からの評論をすべて削除し、経営陣6人も自主的に退陣するなど当局側に歩み寄る姿勢も見せていた。

 しかし、治安機関を統括する鄧炳強保安局長は今月3日、立場新聞が2019年の反政府デモで警察に批判的な報道をしたことなどに触れ、「(警察に)偏見を持ち、誤解を招いた」と主張していた。》(朝日新聞

 立場新聞でさえ、当局に配慮して弾圧を避けようとしたが、中国共産党は容赦しなかった。香港のメディアにはどんどん中国資本の下におかれ、主要な新聞やテレビも政府批判を控えている。以降、批判的な報道は影をひそめるだろう。

 ネット空間を含めて中国「本土並み」の言論封殺の状況になる。あれよ、あれよという間に、香港はここまで来てしまった。日本を含めた海外からの支援、連帯がいっそう求められる。

 

 一方、ロシアでは、旧ソ連スターリン政権による粛清の犠牲者の名誉回復に取り組む人権団体「メモリアル」が、解散を命じられた

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31日朝日新聞朝刊

 《ロシア最高裁は28日、ロシアの人権団体「メモリアル」の解散を命じた。ロシア当局は2015年に同団体を「外国のエージェント(代理人)」に指定しており、これに伴う法律に違反したとして解散を命じた。メモリアルは活動を継続するために法的な手段を模索するとしている。

メモリアルは旧ソ連ゴルバチョフ元大統領が推し進めた「グラスノスチ(情報公開)」時代に設立。ノーベル平和賞を受賞した物理学者の故アンドレイ・サハロフ氏も設立に関与しており、1937─38年のスターリンによる大粛清を含む政治抑圧を記録してきた。1990年代のチェチェン紛争ではロシアの主な人権団体として活動したほか、最近ではプーチン政権による抑圧に対抗し、メモリアルが「政治犯」と認識する人のリストを公表するなどしていた。

検察官は裁判で、メモリアルは旧ソ連が「テロリスト国家」だったかのような誤ったイメージを拡散したほか、第2次世界対戦中の旧ソ連の行動の記憶を汚したと非難。メモリアルのこうした裏切り行為に「誰か」が資金を提供していたとした。

メモリアルは国外から資金提供を受けている事実を明らかにしており、ウェブサイトには、ポーランド、ドイツ、カナダ、チェコなどから資金を得ていると掲載。当局はこうしたことを根拠にメモリアルを「外国の代理人」に指定している。

メモリアルに解散命令が下されたことに対し、国際人権団体のほか米独などが非難。米国務省のプライス報道官がロシア当局に対し人権保護者の抑圧をやめるよう呼び掛けたほか、ドイツ外務省報道官も解散命令は「理解し難い」とし、深刻な懸念を表明した。》(ロイター28日)

 以前から「メモリアル」の活動家が暗殺される事件も起きていた。

https://takase.hatenablog.jp/entry/20090812

 

 プーチン政権は、ロシアの偉大な歴史を汚す団体や言動の取り締まりに注力しており、いくらでも解釈を広げられる規定で弾圧が広がっている。このロシアの偉大さには共産主義時代のソ連邦の歴史も含まれる。

 あの30年前の「民主化」は何だったのかと、年末、暗澹たる気持ちになった。
 しかし、私にとってはいくら不都合でも、私たちはこういう段階を踏んでいかなくてはならないのだろう。

 来年は、人権・自由の状況と逆流に抗して闘う人々を注視していきたい。
 自由を求める世界の若者たちに連帯を!

 

 今年もブログを読んでいただきありがとうございました。来年はホームページも立ち上げ、活動を広げていこうと思っていますので、どうぞよろしく。

 よいお年をお迎えください。

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年末のサイクリングロード。来年も自転車でたのしく遊びたい

 

水俣病は終わっていない

 晦日の空が燃えているようだ。西陽に照らされて対面の東の空の雲が赤く染まっている。明日も晴れるようだが、寒さが厳しいらしい。 

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5時過ぎの空

 去年はコロナで中止になった忘年会が、きのうあった。写真家のOさんの事務所で、酒やつまみを持ち寄っての気の置けない飲み会で、もう20年くらい前から参加している。
 参加者に、在日中国人と在日ラオス人がいて、さらにバンコク在住の人がズームで参加した。議論好きな人たちばかりで、さっそく先日開通した中国ラオス鉄道(中国国境のボーテンと首都ビエンチャンを結ぶ高速鉄道)の話題で盛り上がった。

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12月3日開通式が行われた。雲南省昆明へとつながる(NHKニュースより)
農業、不動産、資源開発など中国からの投資が相次ぎ、外国からの投資の7割は中国だ。

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シンガポールまでつなげる予定。中国ラオス鉄道の総事業費は7000億円近くで、これはラオスGDPの3分の1。ラオス側が負担する約2000億円の大半は中国の政府系金融機関からの借り入れだ。

 

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ビエンチャン駅。漢字の方が大きく、「ラオス国民のアイデンティティを考慮していない不適切なものだ」との批判も。

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ラオス国債の信用度を示す「格付け」は、相当重大な信用リスク「CCC」まで格下げされている

 在日ラオス人が、「ラオス政府はほんとに間抜けで、中国のなすがままになっている」といたく悲憤していた。沿線には広大な中国企業が経営する農園が広がり、バナナなど中国向けの農作物が栽培されている。
 貿易や投資は言うに及ばず、近年のラオス人の留学先もほとんど中国であり、人的交流の分野でも中国の存在感は圧倒的だ。

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タイの東北地方で中国ラオス鉄道につなげる高速鉄道の工事が進行しているが、タイ国内には反発もある。

 この鉄道ははじめから採算割れが見えており、ラオスが巨額の債務を負うことは明らかで、結局は中国の「債務の罠」に陥ることになるだろう。高速鉄道は将来シンガポールまで延び、東南アジア一帯が中国のさらに強い影響下に入るが、その趨勢は抑えられまい。
 5時間近く、酒を飲みながらいろんなテーマをとりあげて議論が続いた。これだけしゃべったのはほんとうに久しぶりだった。
・・・・・・

 映画『水俣曼荼羅を観てきた。372分、6時間超!その長さにちょっとためらったが、観た人から「おもしろくて、全然長く感じないよ」と背中を押されたのだ。実際、画面に引き付けられて、もっと観たいと思うくらいだった。

docudocu.jp


《『ゆきゆきて、神軍』の原一男が20年もの歳月をかけ作り上げた、372分の叙事詩水俣曼荼羅』がついに、公開される。
原一男が最新作で描いて見せたのは、「あの水俣」だった。「水俣はもう、解決済みだ」そう世間では、思われているかも知れない。でもいまなお和解を拒否して、裁判闘争を継続している人たちがいる―穏やかな湾に臨み、海の幸に恵まれた豊かな漁村だった水俣市は、化学工業会社・チッソの城下町として栄えた。しかしその発展と引きかえに背負った〝死に至る病″はいまなお、この場所に暗い陰を落としている。不自由なからだのまま大人になった胎児性、あるいは小児性の患者さんたち。末梢神経ではなく脳に病因がある、そう証明しようとする大学病院の医師。病をめぐって様々な感情が交錯する。国と県を相手取っての患者への補償を求める裁判は、いまなお係争中だ。そして、終わりの見えない裁判闘争と並行して、何人もの患者さんが亡くなっていく。
しかし同時に、患者さんとその家族が暮らす水俣は、喜び・笑いに溢れた世界でもある。豊かな海の恵みをもたらす水俣湾を中心に、幾重もの人生・物語がスクリーンの上を流れていく。そんな水俣の日々の営みを原は20年間、じっと記録してきた。
水俣を忘れてはいけない」という想いで―壮大かつ長大なロマン『水俣曼荼羅』、原一男のあらたな代表作が生まれた。》(公式HPのIntroduction)

 私は、今年は水俣づいていて、桑原史成さんと石川武志さんの写真展に行き、映画『MINAMATA』を観て、田口ランディの『水俣~天地への祈り』を読んだ。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20211014

 ところで以前、『MINAMATA』を観たらこのブログに書くと予告して書かないでいたのは、失望が大きかったから。物語の重要な構成要素―例えば、ユージン・スミスチッソの社長から取引を持ち掛けられる、アトリエが放火で焼かれてしまう、収容所のような病院にひそかに潜入してチッソが隠す決定的な証拠を見つける、などなどがみな作り事なのだ。「事実にもとづく」とうたう映画で、これは許されないだろう。

 田口ランディの本はとても素晴らしかったので、いずれ紹介したい。

 水俣についてはある程度、勉強したと思っていたが、『水俣曼荼羅』を観て、知らないことがなんと多いことかと気づかされた。

 2004年10月15日、提訴から22年かかった、水俣病関西訴訟の最高裁判決が出た。
 熊本で1980年に提起された第3次訴訟と、東京、京都、福岡で提起された裁判の総計2千人を超える原告は、1995年に示された政府解決策にのって訴えを取り下げたが、それを受け入れずに裁判を続けたのが関西訴訟の原告たちだ。

 この判決は、水俣病(未認定)患者らに対するチッソの責任に加えて、水俣病の発生・拡大を防止するための規制権限を行使しなかった国および熊本県の責任を認めた画期的なものだった。

 この判決で注目すべきことの一つは、水俣病とは何かという「病像」論で科学論争が繰り広げられた結果、過去の学説がひっくり返ったことだ。
 これまでは水俣病は末梢神経の障害とされていたが、この判決では、二人の医師、浴野成生、二宮正が唱える大脳皮質障害による感覚障害との説が採用された。そして、必ず複数の症状の組み合わせを要求し、感覚障害だけでは水俣病と認められないとしてきた環境庁の1977年判断条件を採用せずに、新たな認定基準でより多くの人が水俣病と認められる道を開いた。

 この二人の医師による、学会の主流を相手にした孤独な闘い、患者への寄り添いを通じて、新たな水俣病像を知った。(日本外国特派員協会での会見資料参照)
http://aileenarchive.or.jp/minamata_jp/documents/060425ekino.html

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環境大臣時代の小池百合子も登場

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ユージン・スミスが「恋人」と呼んだ胎児性患者の田中実子(じつこ)さんを訪れた浴野医師

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 (胎児性患者の坂本しのぶさんは"恋多き女性"で、映画では、これまで好きになった人との対面をセッティンング。)

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パーキンソン病とともに生きる最晩年の石牟礼道子さん。「悶え神」と「許し」を語った。

 何年も国や県を相手に闘うのはしんどい。勝ち目があるわけでもない。カメラが入っていく原告の家は、襖が破れ放題で、経済的に追い詰められているのがわかる。「一人で国を相手に闘うもんじゃない」との弱音も漏れる。しかし、闘い続ける人々の表情は実に美しい。

 声を出して笑う場面も、涙なしに見れないシーンもある。この映画は、水俣病をめぐる闘いの記録として貴重であるだけでなく、そこに生きる「人間」が深く描かれ、水俣病は今も続いていることを説得力をもって訴えている。

 撮影15年、編集5年。まさに執念のドキュメンタリー。お勧めです。

 

渋谷敦志写真展「今日という日を摘み取れ」

 数年に一度という寒気が日本列島を覆っているそうで、きのう今日は冷え込んでいる。そんななかの大掃除で、震えながら家中の窓を拭いた。いよいよ年越しだ。

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バケツの氷が夕方まで残っていた。

 一年で最も昼が短い冬至は、真冬の始まりであるとともに、ここから太陽が復活し始める。一陽来復(いちようらいふく)である。だから、冬至を新年とする民族もいる。

 地球の生き物は、もとをただせば太陽エネルギーで生かされている。(ごく一部、地熱エネルギーで生きる生物もいるが)

 植物は太陽エネルギーを取り込み、水と二酸化炭素を材料にグルコースを合成し、酸素を排出する。光合成である。

 一方、私たち動物は、肺から吸い込んだ酸素でグルコースを分解してエネルギーを引き出し、二酸化炭素と水蒸気(水)をはきだす。光合成を逆転させた呼吸である。

 つまり、地球の生態系とは、太陽エネルギーをみんなで融通しあうシステムと言ってもよい。当たり前すぎていつもは意識していないのだが、太陽のおかげで私たち生命はきょうも生きていられるのだ。だからこそ、人類が太古から太陽を神と仰ぎ、日本では今でも「おひさま」と様付けで呼ぶのだろう。
 こうした命との「つながり」への「気づき」を重ねることがコスモロジーを形成していくことになるので、毎日意識的にやるようにしている。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20210831

 22日から初候「乃東生(なつかれくさ、しょうず)」。ウツボグサが芽を出すころ。26日から次候「麋角解(さわしかのつの、おつる)」。ヘラジカの角が生え変わるころ。26日からが末候「雪下出麦(ゆきわたりて、むぎのびる)」。つもった雪の下で麦が芽を出し始める。

・・・・・・・

 22日、渋谷敦志さんの写真展「今日という日を摘み取れ」の最終日に滑り込んだ。第4回「笹本恒子写真賞」受賞記念の展示だ。

ソース画像を表示

(ブラジル・リオデジャネイロの貧民街の路地を駆け抜ける少女。「貧困と暴力の悪循環から抜け出せずにいる街で未来の燭光を思わせるようにシーンに出会い、懸命に後ろ姿を追った」。ピンボケがかえっていい味を出している)

 笹本恒子とは日本の女性報道写真家第一号とされる方で、1914年生まれ。ご存命だという。

 「渋谷さんは、日本の写真界にあってもっともアクティブに、グローバルな視点を持って活動を続けているフォトジャーナリスト」(賞の選者、野町和嘉氏評)と評され、今年の土門拳賞の候補にもなっている。https://takase.hatenablog.jp/entry/20210321

 文字通り日本の報道写真界の第一人者として活躍している。今回の写真展では、日本の釜ヶ崎や福島からパレスチナルワンダなど苦難の中に生きる人々、各地の難民キャンプまで渋谷さんの仕事の集大成を観ることができた。

 世界にはかくも苛烈な現場があるのだと暗澹たる気持ちにさせられる一方で、希望をもって生きようとする人々に応援したくなる。

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明かりを落としたなかにモノトーンの写真が浮かび上がる(新宿「シリウス」にて)

 今回の展示はモノトーンで統一していた。色が外れた分、テーマと表情が強く浮き出ている。

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弟を抱え食料を探す難民の少女。南スーダンの戦禍から徒歩で国境を越えてきた難民100万人がウガンダ北部の難民居住区で暮らす

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ルワンダの虐殺を逃れた難民の歩いた道。朝霧のなか、渋谷さんの前を若者が自転車で駆け抜けて行った。「新しい時代への跳躍を予感させる」と渋谷さん。

 渋谷さんといえば、去年4月、コロナ禍の初期に医療現場にいち早く入って取材、Nスペで報じていた。「コロナ危険地」を取材できるか - 高世仁の「諸悪莫作」日記 (hatenablog.jp)

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渋谷さんと

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難民取材でお世話になった「国境なき医師団」の広報、舘俊平さんと久しぶりに会場でお会いした。渋谷さんは医師団の現場も数多く訪れrている

 受賞の知らせをアルメニアからバングラデシュへの移動の直後に受けたという渋谷さんはコロナ禍の中も精力的に世界を回っている。いまの時代には、「現場」に入る意味がいっそう意味を持ってくると言う。

《突然、降りかかった未知のウイルスによる感染症の世界的流行(パンデミック)という災禍が、人と人とを物理的にも精神的にも引き離すいまこそ、「ここではないどこか」へ臆さずに移動し、他でもない「あなた」と対面する営みを写真行為の出発点にすれなおし、意志を持って「人びとのただ中へ」と踏み込むことの意義を問い直したいと思う》(写真集前書き)

 写真との厳しい向き合い方に襟を正される思いがする。

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写真展と同名の写真集が11月に出版された

 

飯塚繁雄さんの逝去によせて2

 最近の国際ニュースでは中国の動きばかりが気になる。

 19日に行われた香港立法会でのインチキ選挙で、ほぼ全議席親中派議員で占められた。
 これまでは定数75で、うち市民が選べる「地区直選」議員が35、業界団体が選ぶ「職能別」が35で、一昨年の民主派の勢いからいえば、75の多数を取る可能性が十分あった。ところが、2020年9月に開催予定だった選挙をコロナウイルス感染拡大を理由に1年延期。中国はその間に選挙制度を大きく変更した。
 「地区直選」が20に減らされ、「職能別」が30となり、新設の「選挙委員」枠(行政長官を選ぶ1500人の親中派選挙委員会から選ばれる)が最多の40で、計90が定員となった。「地区直選」枠でさえ、選挙委員会が「国家への忠誠心」に問題があると判断すれば立候補できない。民主派は完全に締め出されたのだ。
 これでは選挙に希望を託せない。投票率30,2%と前回(58.28%)から半減したのは、せめてもの市民の抵抗だろう。

 倉田徹・立教大教授は「これまで民主派が抵抗して廃案に追い込んできた法律や政策が次々と復活するはずだ。立法会が開会すると、2003年の50万人デモ後に政府が撤回した国家安全条例が審議されるだろう。すでに国安法があるのに、機密の窃取などで別の罰則が加えられる。また、大規模な反対運動で失敗に終わった愛国教育の導入も審議されるだろう。立法会は、こうした政府の法案を次々と通す存在になる」という。立法会が、政府に承認印を押すだけの「ゴムスタンプ化」すると倉田氏は指摘する。(朝日新聞

 先日、香港大学に設置されていた天安門事件の犠牲者を追悼する像を、大学が「法律違反となるリスクを避けるため」として、みずから撤去した。

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香港大学の像(NHKニュースより)

 これは、天安門事件の犠牲者をモチーフに、デンマーク人の芸術家が制作した苦悩に満ちた人の顔を積み重ねた高さ8メートルの像。1998年から香港大学の構内に設置され、事件の真相究明を求める市民団体や学生たちが毎年、像の前で追悼行事を行ってきた。

 24日には、香港中文大学の「民主の女神」像も大学が突然撤去したという。これも天安門事件の記憶を引き継ぐための設置されたものだった。

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「民主の女神」像。一昨年9月2日、香港中文大学を取材したさいのスナップ

 さらに、嶺南大学にあった天安門事件の彫刻も撤去され、壁に描かれた民主の女神像の絵は灰色に塗りつぶされたという。
 天安門事件がタブー化され、市民生活における表現の自由も、本土並みになったといえる。


 香港では、国家安全維持法による摘発が相次ぐ中、自主規制の動きがますます広がっている。
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 「飯塚繁雄さんの逝去によせて」のつづき。

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2003年4月、ジュネーブ国連人権高等弁務官セルジオ・デメロ氏に拉致被害の実態を訴える飯塚繁雄さん(手前右)

 北朝鮮による日本人拉致が広く知られるようになったのは、田口八重子さんのケースが最初だった。

 マスコミ報道としては、1977年の久米裕さんが失踪した「宇出津事件」に関する『朝日新聞』(松村崇夫記者)の記事、また80年の『産経新聞』(阿部雅美記者)による3組の「アベック拉致」疑惑記事があるが、残念ながらいずれも反響は大きくなかった。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20160319 

 85年6月には、韓国で原敕晁(ただあき)さんに成りすました北朝鮮工作員辛光洙(シングァンス)が逮捕され、原さんの拉致が発覚。韓国捜査機関がはっきりと日本人拉致を発表した。これは日本でも報道されたのだが、その扱いは今から見ると驚くほど小さかった。

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辛は日本人、原敕晁に成りすまして韓国に入った(辛の顔写真のついた原さん名義の運転免許証)

 87年、乗員乗客115人が犠牲になった「大韓航空機爆破事件」は、83年の「ラングーン(アウンサン廟)爆破テロ事件」とともに世界を震撼させた北朝鮮による国際テロだった。

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アブダビから韓国に移送された金賢姫

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金賢姫は、日本人化の先生、李恩恵は拉致された日本人だと証言した

 その爆破実行犯は、蜂谷真一・真由美の日本旅券を持つ父娘を装った二人連れで、アブダビで拘束されそうになったとき、二人は毒物で自殺を図った。年配の男性の方は死亡したが、若い女性は蘇生し、韓国に身柄を送られ、金正日からの爆破指令を暴露する。
 この娘役の金賢姫(キムヒョンヒ)は、日本人として振舞うための訓練を李恩恵(リウネ)という日本から拉致されてきたと思われる女性から受けていたと証言、大きな注目を浴びる。爆破テロと拉致というおどろおどろしい組み合わせはメディアでもセンセーショナルに取り上げられた。91年に李恩恵田口八重子さんと特定されたことと飯塚家を巻き込んだ騒動については前回書いたとおりだ。

 これが北朝鮮による日本人拉致が、日本の多くの人に知られる始まりと言っていいだろう。

 その後、日朝間の交渉の場で、日本側が田口八重子さんのことを持ち出すと、北朝鮮は「大韓航空機爆破事件」自体が「でっちあげ」で、金賢姫李恩恵北朝鮮には存在しないとして激しく抗議し、席を立った。
 この飛行機爆破は、アメリカが北朝鮮を「テロ支援国家」に指定する理由になったもので、北朝鮮としては絶対に認めたくない事件だ。

 私たちは田口八重子さん拉致事件の取材を、金賢姫北朝鮮の人間だというイロハの事実の証明からはじめた。金賢姫北朝鮮工作員であることは確実だった。(当たり前だが)

takase.hatenablog.jp

  2002年の小泉訪朝のさい、北朝鮮が認めた拉致被害者のなかに八重子さんが入っていたことがとても意外だった。

 田口八重子李恩恵であり、それを認めれば、金賢姫北朝鮮工作員として爆破事件を起こしたことの責任が問われることになる。北朝鮮は韓国に公式に謝罪し、115人の遺族への慰謝料を支払わなければならないだろう。だから、北朝鮮は、八重子さんだけは拉致を認めず、隠しておくだろうと思ったのだ。

 北朝鮮から日本政府への説明によると、北朝鮮田口八重子さんが北朝鮮に入ったことは認めた上で、すでに死亡しているとし、八重子さんは「李恩恵ではない」としている。北朝鮮は今も大韓航空機爆破事件は「でっちあげ」とのスタンスを変えていない。

 北朝鮮が八重子さんを生きて日本に帰せば、彼女が金賢姫を訓練した「李恩恵」であることがバレてしまう。つまり、北朝鮮が八重子さんを生きて日本に帰すには、大韓航空機爆破事件をやりましたと認めることが前提となる。

 10年ほど前、金賢姫は「国と家族を裏切った」と北朝鮮出身だと認める表現を使った北朝鮮の人間がいたというニュースがあったが、その後、北朝鮮が事件と金賢姫李恩恵の存在を認めたという情報はない。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20100730

 金賢姫には同じ女性工作員のエリートで金スッキというライバルがいた。二人は中国語の研修で一緒にマカオに派遣され互いに切磋琢磨させられていた。日本人化教育では、金賢姫の教育係が田口八重子さんで、スッキは横田めぐみさんが担当させられた。最終的に大韓航空機爆破の任務を与えられたのは金賢姫だった。
https://takase.hatenablog.jp/entry/2015100

 日本人拉致被害者たちは自分が拉致されるという悲劇に加えて、北朝鮮のテロへの協力までさせられるという二重三重の苦しみを強いられたのだ。
 そして、工作機関の最高機密である国際テロの準備に深くかかわる立場に置かれた田口八重子さんと横田めぐみさんの奪還は非常に難しく、あの国の体制に大きな変化が必要だと思う。
(つづく)

金井重さんを偲んで

 喪中はがきが届く時節になったが、きのう、ユニークな世界旅行家だった金井重(しげ)さんが今月5日に94歳で亡くなったことを知った。

 いつも笑顔の楽しい人で、私も親しくお付き合いした。たくさんの思い出がある。ご冥福をお祈りします。

 金井重さんは、世界旅バックパッカー婆さんとして知られ、年金を使ってのつましい旅で世界中を精力的に回ってきた。冒険家の集まり「地平線会議」でも何度か報告している。報告会のインデックスには―
1992/11/27「重さんの諸国漫遊記」◇金井重〈世界旅行家〉
1994/5/27 「シゲさんの地球88か国お遍路講談」◇金井重〈旅行家〉とある。

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99年5月の「金井重とその仲間達展」の案内状より

 テレビのワイドショーにはリュックを背負って登場して、旅のおもしろさを語った。すさまじい好奇心と人懐こさで、どこに行っても市井の人々に入り込んで旅を満喫していた。

 一人旅は全部自分で決めるから楽しいのよ。お金の使い方を決める大蔵大臣でもあるし、移動手段を決める運輸大臣、体調を管理する厚生大臣も自分でやるんだから・・豪快に笑いながら、語っていたシゲさんを思い出す。

 シゲさんを偲んで、久しぶりに『地球たいしたもんだね~シゲさんの八十八カ国放浪記』(1996年、成星出版)の頁を繰った。

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本のそでには「お金はチョッピリ、時間はタップリ、輝け、ビンボー放浪世界旅行!」とある。88カ国すべての旅の記録があるが、ブルネイだけ写真がないとのことで私が提供した。

 著者紹介にはこうある。

《1927年福島県に生まれる。女学校卒業と同時に、戦時下のため女子挺身隊に入る。敗戦となり故郷に戻り、民間企業へ勤務。その後、上京して共立女子大学文芸学部へ入学。卒業後、日本労働組合総評議会で働く。計30年間の労働生活を節目に、1980年に退職。翌年9月、アメリカを振り出しに、93年12月までに88か国を旅する。さらに96年6月までに訪れた国は92か国を数えている。そのユニークな旅の経験を語る講演会が人気。著書に『シゲさんの地球ほいほい見聞録』(山と渓谷社)、『おばんひとり旅』(あむかす)がある。》

 軍国少女から転じて「泣く子も黙る」と言われた総評(左派労組のナショナルセンター)の専従活動家になってバリバリやっていた重さんが、どういうわけで早期退職して旅に出るようになったのか。

《戦後の民主主義の青春期、60年安保から70年安保に至る高度経済成長期、オイルショック以降の経済安定期を、働きづめに働いてきて、ふっと思ったんですよね、このままでいいのかしらって。52歳のときでした。夏目漱石の頃なら、人生50年。でも、もはや人生は80年の時代。残りは約30年もある!さて、金井さんよ、どうする?ここらで身も心も、一度オーバーホールしておいたほうがいいんじゃない?それから第二の人生を踏み出すのよ、ね?

 それで退職して、アメリカに渡ったっていうわけです。ほら、島崎藤村も「志を立てんとする者は旅に出よ」と言っていますから。アメリカを選んだのは、英語が話せるようになるんじゃないかと期待して。英語、ずっと苦手だったんですよ。なにしろ、女学校では適性言語ということで習えなかったし、28歳で入った大学では、基礎力がないから落ちこぼれ。でも、国際化が進むこれからの時代、英語も話せないんじゃ情けない。よーし、頑張るわよぉ!というわけで、西海岸で移民のための英会話学校に通ったんです。

 が、しかし。50の手習いですから、なかなか身につきません。ちっとも英語がペラペラにならないうちに、翌年の夏のバカンスが来て、リュックを担いでメキシコ旅行に出ました。それが、グアテマラへ、南米へ、果てはヨーロッパへと続く、長い旅になってしまったのです。見知らぬ国を次から次へと旅していくことの、おもしろいこと、おもしろいこと。

 「金井重」改め「フーテンのシゲ」は、こうして、第二の人生の始まりにおけるつまづきから生まれたのでした。》

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「旅をしていると、シゲはとっても軽快で、いい気分になれます。旅がそんなシゲを作ってくれるのです。ありがとう、青い地球。そして世界の人々。もっと旅をして、この世を楽しみたい。」(あとがき)『地球たいしたもんだね』より


 シゲさんのハジケぶりは、一心不乱に左翼活動に没頭してきた反動だろうか。旅の体験は「放課後の開放感」と表現している。

 どうして旅を続けるのか?との問いに、

《ズバリ、おもしろいからです。そりゃ、キツイことだってありますよ。若くないから。でもね、おばさんになってからの旅は、若い人には(たぶん)わからない味ってもんがあるんです。
 いろいろな国に行って、文化や生活習慣の違いからくる、思いがけないカルチャーショックを受けたりするでしょう?そんなとき、コチコチ頭にズシーンと、すごいパンチを食らっても、「これぞオーバーホールの価値あり」って、わりと素直に喜べちゃう。「ああ、ダメなおばさんが、これで少し鍛え直してもらえたわ」って。なんだか、放課後の開放感といった感じで、どんな経験も楽しめるんですね。このごろ、芭蕉西行が旅に出た気持ちが、僭越ながら、わかるような気もしてきました。》

 シゲさんの旅は俳句を詠み、人生を考え、少しづつ「深化」していく。

《2回目の旅の途中、インドで知り合ったアンマという女性が、「あなたはそうやって旅をすることで、人生を考える林住期を送っているのよ」と言ってくれたのが、今でも心に残っています。「林住期」とは、ヒンズー教で、「学習期」「家住期」に続く、瞑想にふける時期を指します。これを経て、精神的な余生を過ごし、死を迎える「遊行期」となるのです。うーん、林住期かぁ。なるほどなあ・・・。》

 私と知り合ったころ、シゲさんは還暦を少し過ぎたころで、よく、私はいま「林住期」を生きているのよ、と言っていた。

 私がバンコク駐在中は、旅の途中に立ち寄っては泊まり、うちに荷物を置いて、旅の「拠点」にしていた。

 バンコクのうちに泊まったあるとき、シゲさんが「あのね、簡単に覚る方法があるらしいわよ」という。

 当時、私はダライラマとインドのチベット亡命政府を取材したあとで、チベット密教の瞑想に凝っていた。毎晩私が瞑想するのをシゲさんが知って、こういう話になった。

 「トランスパーソナルっていうのが、アメリカにあるらしいわよ」とシゲさんが言うのをメモして岡野守也『トランスパーソナル入門』を買い、読んだことから、岡野さんに師事するようになった。シゲさんは、人生の転機のきっかけも作ってくれたのだった。

 私が最後にシゲさんに会ったのは6~7年前の地平線会議の報告会だった。短い立ち話でどんな「遊行期」を送っているか、聞きそびれたが、きっと納得のいく人生だったのだろうと思っている。

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2017年9月、長野亮之介さんの個展にて地平線会議の仲間たちと。これ以降はシゲさんはほとんど外出しなかったようだ(連れ合いの写真より)私は残念ながら居合わせなかった