横田滋さんの逝去によせて10-1年間の裏交渉で成功した小泉訪朝

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 16日午後、北朝鮮は、金正恩実妹、金与正(党第1副部長)の予告通り、開城(ケソン)の南北共同連絡事務所を爆破した。北朝鮮は、韓国の脱北者団体による体制批判のビラ散布に強く反発し、対抗措置を取ると警告していた。

 この建物は、2018年4月の『板門店宣言』で、「南と北は、当局間協議を緊密にし、民間交流と協力を円満に保障するために、双方の当局者が常駐する南北共同連絡事務所を開城地域に設置」したもので、文在寅大統領による「南北和平プロセスの代表的功績」だった。
 
 文大統領が、脱北者団体を刑事告訴するというほどの「おもねり」を北朝鮮に見せても、こうである。むしろ私は、韓国の対北融和策ゆえの行動と理解している。

 あらためて、北朝鮮って分からない国だなあ、と思わせる事件だが、メディアの解説も混迷している。「コロナ感染の影響」などという理由付けまで登場した。
 北朝鮮の行動がなぜ「分からない」のかについては、あらためて書くとして、金与正はさらなる強硬措置を予告しているので当面要注意だ。
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 2002年10月15日、北朝鮮から拉致被害者5人が帰国した。小泉訪朝の最大の成果だった。

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 いま、あの時のような拉致問題の進展を期待して、「まずは安倍首相が金正恩に会って、首脳同士サシで話をすべきだ」という声が大きくなっている。

 北朝鮮への圧力強化を一貫して主張してきた安倍首相は、トランプ大統領金正恩の「蜜月」を受けてコロッと方針を変え、去年5月、“前提条件なしでの対話”へと転換した。
 そこで、強硬派も融和派も「とにかく首脳会談を」という流れになっているのだが、私は違和感がある。
 「前提条件なしの首脳会談開催などと言っている安倍一味の厚かましさはこの上ない」(朝鮮アジア太平洋平和委員会の報道官 6月2日)という北朝鮮の反応はともかく、会えばいい、というものではないと思う。

 02年9月の小泉訪朝は、直前に突然発表され「電撃訪朝」と言われた。
 しかし、その実現までには、水面下での膨大な「外交努力」が積み重ねられていた。
 小泉首相の「密使」だった田中均氏(当時、アジア太平洋局長)によれば、首相は訪朝して拉致問題の打開をはかることを決意し、田中氏に命じて、01年秋からの一年におよぶ周到な裏交渉を行わせたという。

 国民の命がかかっている。失敗したら内閣がふっとぶだけではすまない。小泉首相は全責任を負う覚悟を決めて田中氏に任務を与えたはずだ。

 《私はほとんどの場合、週末を活用して、北朝鮮側(ミスターX)と二十数回の交渉を行った。(略)交渉前の木曜日か金曜日に必ず官邸に総理や官房長官を訪ねて事前の打合せを行い、交渉から帰国した後の月曜日か火曜日に再び官邸を訪れて報告をするということを一年間繰り返していたのである》。(田中均『外交の力』P103)

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 完全な裏交渉であるから、お互いを慎重に値踏みする。果たして相手はちゃんとトップの信頼を得ているのか、と。おもしろいエピソードがある。

 《先方も、私が小泉首相の信頼を得ているのかどうかということには非常に拘(こだわ)った。民主主義国は人よりポストである。私は一言述べた。
 「それは日本の新聞を見ればよい。『総理の一日』欄を見れば私が総理と常に相談してきているのがお分かりになるでしょう」》(P107)
 新聞の首相動静の欄には、交渉中、田中氏と総理との面会が88回載ったという。 

 この聞、田中氏は、北朝鮮に「スパイ容疑」で拘束されていた元・日経新聞社員を無条件解放させ(02年2月)、02年8月の中国瀋陽の日本領事館に脱北者5人が駆け込んだ事件を解決し、と難しい事案を粘り強い交渉で打開している。

 首脳会談の前、日本側が支払う「賠償・補償」の金額を示せと要求する北朝鮮の「ミスターX」と拉致の情報を出せと迫る田中均氏の間で議論が堂々巡りになったとき、「ミスターX」が思いつめたように、こういったという。
 「あなたは更迭されることですむかもしれないけど、自分たちはそんなものでは済まないんです。私は命がけでやっているのです」。(船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』)
 失敗したら最悪は処刑だ。かの国の担当者の必死さが想像できる。
 田中氏も、首相からの全面的な信任と自身の強い使命感のもと交渉を続けたからこそ、小泉訪朝がセッティングでき、あの「成果」が生れた。

 この間、この動きが全く外に漏れなかった。大したものだと、日本の外交を見直した。

 その田中氏を安倍首相は目の敵にし、融和派の代表として叩くことで、自らを「強硬派」であると印象づけた。(きのうのブログで引用した国会質問に出てくる)
 しかし、田中氏は外務官僚である。自身の主義主張で動いているわけではない。

 事実、田中氏は、大韓航空機爆破の実行犯、金賢姫に会ったり、北朝鮮に制裁を科したり、日米防衛ガイドラインの策定責任者になったりと、北朝鮮が嫌がる仕事もしている。
 官僚を使って拉致問題の打開に向けて努力させるのか、官僚に文書捏造を強いて自死に追い込むのか。官僚をどう使うかは、政権次第である。

 拉致問題がまったく動かないまま時間が経っていくことには、私も耐え難い思いをもつ。「とにかく首脳会談を」と言いたくなる気持ちも分かる。しかし、トップが会えば何とかなるというものではないのだ。
 安倍首相はほんとうに命がけで拉致問題の打開をすると決意しているのか、そしてその指揮のもとで政府が真剣な努力を行っているのか。それが問題だ。 

 ナチズム、スターリニズムを研究したハンナ・アーレントという思想家がいる。彼女は『全体主義の起源』という著作で、全体主義は独裁とは全く別のメカニズムだと主張し、その外交に関してこう指摘する。

《外部世界の目には運動の中で彼(指導者)だけが非全体主義的な概念を使って話し合うことがまだできる唯一の人間に見えてくる。(略)外部世界の人々は(略)全体主義政府と交渉せねばならなくなると、いつも「指導者」との個人的会談に期待をつなぐ》
 全体主義の指導者(例えばヒトラー)だけは、ものの分かる、腹を割って分かり合える人間に見えるので、私たちはヒトラーとサシで話すしか打開の道がないと思ってしまうということだ。
 そして、世界はヒトラースターリンに何度も騙され、期待は裏切られてきたのである。米国、韓国は、何度金正恩と首脳会談を行ったのか。

 首脳会談だけに過大な期待を抱くことなく、不退転の決意で、あらゆる知恵を振り絞り努力を続けるしかない。歴史の冷徹な教訓である。
(つづく)

横田滋さんの逝去によせて9-蓮池さんの「北に戻らない」決断

 15日、横田滋さんの自宅マンションの住民でつくる支援団体「あさがおの会」が被害者の早期帰国を求めて国会周辺で「沈黙の行進」を行った。

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oita-pressより

 同会代表の田島忠さん(78)ら5人が約400メートルを無言で往復。白いトルコキキョウとめぐみさんの写真が入った長さ約6メートルのタペストリーを国会議事堂や首相官邸議員会館の前で掲げた。
 今は国会会期中で、政府や政治家に反省を迫る意味もあったのだろう。

 「とにかく何かしたい」という気持ちの現れだと思う。その思いは多くの市民が共有している。

 きのうのブログで、2002年10月の5人の拉致被害者の帰国に触れたが、当初は「一時帰国」とされ、2週間後には北朝鮮に戻ることになっていた。
 このとき北朝鮮に5人を戻さなかったことが、2年後彼らの子どもと夫(ジェンキンズさん)を日本に呼び寄せるという、その後の流れを作った。

 当時、私もテレビなどのメディアに出て、戻すべきでないと主張した。もし戻せば、きのう書いた寺越武志さんのケースのように、本人たちは「共和国公民」として北朝鮮に住み続けたいと言わされたはずだ。

 拉致被害者救出運動の大きな分岐点の一つだった。

 このとき、戻さないことを強く主張して決断したのが安倍氏だとされ、このことは「拉致の安倍」として人気を高める大きな要因となった。こうして安倍氏は、拉致被害者の救出という「功績」をもって首相に上り詰めたのである。

 それはウソだと声を上げたのが、かつて「家族会」の事務局長・副代表だった蓮池透氏だ。拉致被害者蓮池薫さんの兄である。
 事務局長時代は、家族会の斬り込み隊長などと呼ばれる強硬派だった。メディアへの注文も厳しく、私も「報道の仕方がおかしい!」と怒鳴られたことがある。

 その後、家族会の役員を辞め、支援団体の「救う会」や政府への批判を展開している。

 蓮池透氏は2015年末、『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社)という本を出版、安倍総理の欺瞞を暴露した。
 2016年1月12日の衆院予算委員会の質疑にこの本が登場する。

緒方林太郎民主党
「2002年、小泉総理の訪朝時、蓮池薫さんたち5人が戻ってきたときのことですが、当時、当初は、これは一時帰国であるとされまして、その後一旦北朝鮮に戻す約束になっていたと言われています。しかし、世間的には、当時の安倍官房副長官が強硬に反対をして北朝鮮に戻さなかったということになっているわけでありまして、安倍晋三総理大臣も、直接、自分自身のフェイスブックでのエントリーで、『拉致被害者5人を北朝鮮の要求通り返すのかどうか。彼」、これは外務省の田中均アジア大洋州局長だと思いますが、「彼は被害者の皆さんの「日本に残って子供たちを待つ」との考えを覆してでも北朝鮮の要求通り北朝鮮に送り返すべきだと強く主張しました。私は職を賭してでも「日本に残すべきだ」と判断し、小泉総理の了解をとり5人の被害者は日本に留まりました。」こう書いておられます。
 その一方で、この蓮池透さんの本には、72ページにこのような記述があります、安倍氏や中山内閣官房参与を含め日本政府は弟たちをとめることなどしない、戻す約束があるからだと。そして、少しページを移りまして、
 北朝鮮に戻ったら、二度と日本の地を踏むことはないだろう。また日本に残った場合は、その確率は非常に小さいかもしれないが、北朝鮮当局も人の子、子どもたちを日本で待つ親元へ送るわずかな可能性がある。その可能性に賭けよう。まさに、ギャンブルだが、苦悩の決断をしたのだ。
 この弟たちの『北朝鮮には戻らない、日本に留まる』という強い意志が覆らないと知って、渋々方針を転換、結果的に尽力するかたちとなったのが、安倍氏と中山氏であった。
 あえて強調したい。安倍、中山両氏は、弟たちを一度たりとも止めようとはしなかった。止めたのは私なのだ。
というふうに書いてございます。
 安倍総理の思いと蓮池透さんが言っておられること、全く反するわけでありますが、いずれが真実でしょうか、安倍総理大臣。」

 「拉致の安倍」のアイデンティティの根幹にかかわるこの質問に、安倍総理は興奮した様子で、5人を戻すという流れに抗して、帰さないと決断したのはあくまで自分だと言い張っている。

 しかし、これは拉致被害者蓮池薫さんの証言で決着がついている。
 北朝鮮に戻らないという方針は、蓮池薫さん本人が悩みぬいた末の苦渋の決断だった。
 《私たちを拉致した、しかし私たちの子どもたちが残されている北朝鮮に戻るのか。それとも生まれ育ち、両親兄弟のいる日本にとどまって子どもを待つのか。苦悩の末に私が選んだのは後者だった。
 苦しい決断、いや一生に一度の賭けとも言えた。
 「日本に残って、子どもを待とう」
 私がこう打ち明けたとき、妻は半狂乱となった。
 「何を言っているの?! 子どもがいるじゃない!」
 かつて見たことのないほどの激しい表情で反発してきた。こんなことは初めてだった。・・・

     意を決し、日本政府に電話した。

 「日本にとどまって子どもを待つことにしました。よろしくお願いいたします。》(蓮池薫『拉致と決断』2012年新潮社  引用は文庫版P3, P34)

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2015年文庫化された

 さらに、兄の蓮池透氏は、あるインタビューでこう証言する。
 「2002年10月24日朝、弟は中山内閣官房参与に、北朝鮮には戻らないと電話で伝えた。ところが、『10月23日に、5人の意志を携帯電話で確認した』という安倍さんの発言を、朝日新聞が伝えている。それはありえない。当時、5人は携帯なんか持っていません。また、安倍さんが『北朝鮮に戻るな』と5人を引き止めたこともないのです」。

 先の緒方議員の質問に逆上したかのように安倍総理はこう叫んだ。

安倍晋三
「私が申し上げていることが真実であるということは、バッジをかけて申し上げます。私の言っていることが違っていたら私はやめますよ、国会議員をやめますよ。それははっきりと申し上げておきたいと思います」
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=119005261X00320160112¤t=1

 

 あれ、追い込まれて見得を切るようなこのセリフ、どこかで聞いたような・・・

 

「私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。」

 2017年2月17日の衆議院予算委員会で、福島伸享民進党)から森友学園の認可および国有地の払い下げについて質されたときの安倍総理の答弁だ。
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=119305261X01220170217¤t=1
 この答弁に合わせるために、官僚組織はじめ多くの人々が巻き込まれ、みなでウソをつき、資料を隠し、さらには改ざんし、自死に追い込まれる犠牲者まで出したのはご存じの通りだ。

 ウソで「功績」を捏造したとすれば、そんなリーダーが拉致問題を進展させられるのだろうか。
(つづく)
 

横田滋さんの逝去によせて8-「美談」にされた拉致

    「拉致問題の解決のために、何かしたいんですが」
 「何かお手伝いできること、教えてください」
 これまで何度、尋ねられたことか。

 拉致問題ほど、国民が「何かやりたい」と思い、大衆運動の巨大な潜在エネルギーを持つテーマはないだろう。それをまざまざと見せつけられたことがあった。

 小泉訪朝のあと、10月15日に5人が帰国した。
 その後、2週間の予定滞在期間を越えても日本に留まるとの方針を政府が打ち出すと議論は沸騰。北朝鮮との「約束」を守って、5人はいったん北に帰すべきだとの意見もあり、北朝鮮とどう向き合うべきかに、人々が強く関心をもった時期だった。飲み屋で熱く議論する姿を見ることも珍しくなかった。私もひんぱんにコメンテーターとして、テレビのワイドショーなどに呼ばれていた。

 11月4日、日テレの「ザ・ワイド」に出演し、レギュラーの有田芳生さん(現参議院議員)とスタジオで同席した。放送後、有田さんから、米紙『ニューヨークタイムズ』に拉致問題の意見広告を出さないかと誘われた。
 拉致問題は、もちろん日本と北朝鮮との間の問題ではあるが、これからさらに事態を動かすには、国際的な働きかけが必要だと思っていた私は、その提案に一も二もなく賛成した。

 有田さんは、湯川れい子さんや勝谷誠彦さんなどを誘って「7人の会」を作った。かなり「右」の人から筋金入りの「左」まで入った顔ぶれの統一戦線だった。

 ネットで募金を呼びかけると、驚くほどの勢いでお金が集まり、クリスマス直前の12月23日付「ニューヨークタイムズ」に、拉致事件を伝える“This is a Fact”(これは真実です)と題する全面広告を載せることができた。

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 横田滋さんもこの企画に賛同し、自ら募金してくれた。
 集まったのは1400万円。広告費が650万円だったので750万円もの余剰金が出た。「家族会」に寄付することにし、有田さんが全額を横田滋さんに手渡した。おそらく「家族会」への一回の寄付としては、過去最高の金額だっただろう。

 2009年、膠着する拉致問題を少しでも動かそうと、再び「7人の会」が海外への呼びかけを行うことにした。
 ちょうど、リーマンショック対策の「定額給付金」が予定されており、その使い道に迷ったらぜひ寄付をと呼びかけると、今度もまたすさまじい勢いで募金が寄せられ、総額は1950万円に達した。

 この時は「ニューヨークタイムズ」の紙面でオバマ大統領に訴え、さらに仏紙「ル・モンド」、韓国三大紙(「朝鮮日報」「東亜日報」「中央日報」)にそれぞれ全面広告を載せている。
 基調は、北朝鮮による拉致は、世界が見逃してはならない人権問題だという主張で、例えば「ル・モンド」向けなら「ナチズムを思い起こしてほしい」などと、国ごとに文章を変えて、拉致問題の解決をアピールした。

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 これは2009年4月28日付 The New York Times 。DOU YOU DARE OVERLOOK THE HELL NAMED NORTH KOREA?(北朝鮮という地獄を見過ごすなど、あっていいのでしょうか?)のタイトルの下に、「我々日本人は、オバマ大統領に、北朝鮮の人権侵害を解決するための共同行動を求めます」
 入れた写真は、めぐみさんと二人の弟(上)、政治犯収容所の衛星写真(右)、脱北者救援中に中国から拉致された米国永住権保持者のキム牧師(左)。
 アピールは大統領への呼びかけ文で書かれている。

 この活動をつうじて痛感したのは、拉致問題に寄せる関心の高さと、「拉致問題解決のために行動したい!」という潜在的なエネルギーの大きさだ。

 それなのに今、呼びかけられるのは署名やカンパという旧態依然としたものばかり。多くの市民がよろこんで参加できる形の活動が見当たらない。
 弾圧の中立ち上がる香港の若者や、アメリカ全土を席巻する人種差別撤廃運動を見るにつけ、拉致問題が、日本の市民のエネルギーを有効に引き出せていないのが残念だ。支援団体はもちろん、私のように拉致問題に少しでも首を突っ込んだものは、反省すべきではないか。
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 1997年2月4日、元北朝鮮工作員安明進氏から「めぐみさん目撃証言」を引き出した私は、残りの時間で、ほかに日本人拉致の事例を知っているかと質問している。
 安氏は、先輩の工作員から聞いたくつかの例の一つとして、こんな話をした。

 北朝鮮工作船が日本の領海を進んでいると、後ろから小さい漁船がついてきた。
 工作船であることが発覚することを恐れた工作員たちはUターンしてその漁船を襲い、のっていた3人を捕まえた。一人は激しく抵抗したので、その場で殺して死体を沈め、漁船を「始末」した。
 場所は「ノト」いうところだった。

 私はこの事件に全く心当たりがなかった。
 一ヵ月ほどたって、「現代コリア研究所」の佐藤勝巳所長(6日のブログに登場)に、何気なく、安明進氏がこんなことを言っていましたよと漁船員拉致の話をした。すると佐藤氏は身を乗り出して、「きっとそれは石川の漁船遭難事件ですよ」という。 
 「現代コリア研究所」では、以前からこの事件を拉致ではないかと睨んで調査を続けていたのだった。

 1963年、石川県で、夜、沿岸近くで漁をしていた3人が行方不明になった。その夜、海はベタなぎで、事故など起きるはずがないと、みな不思議がった。
 漁船の乗組員の一人、寺越武志さんは当時13歳の中学2年生だった。遺体はあがらなかったが死亡とされ葬儀も行われた。

 その事件から24年が経った1987年、突然北朝鮮から、無事で生きているとの手紙が届く。その後、武志さんの母、友枝さんは、社会党代議士と朝鮮総連の斡旋で北朝鮮に渡り、息子と涙の再会を果たしていた。

 当時「美談」とされたこのケースを、私たちは取材の結果、拉致と結論づけ、1997年5月10日、テレビ朝日ザ・スクープ」で放送した。
 しかし、武志さんがあくまで「遭難したところを北朝鮮の船に救助された」と言い張るため、今も政府は拉致事件と認定していない。
(詳しくは以下のブログを参照されたい)

takase.hatenablog.jp

 実は、政府に認定されていない「拉致事件」は少なくない。

 めぐみさんも武志さんも、13歳という若さで北朝鮮に拉致された。
 めぐみさんがいまだ消息が分からないのに対して、武志さんは北朝鮮で家族を持ち、日本の肉親と再会できた。今も武志さんは拉致を否定し、北朝鮮の公民として、指導者の恩恵に感謝しながら生きている。

 こうして、私たちは新たな拉致事件を発掘していった。
(つづく)

横田滋さんの逝去によせて7-国会で初の「拉致」答弁

 韓国政府が脱北者団体を刑事告発したとのニュースには驚き、また失望した。

 《【ソウル時事】韓国政府は10日、北朝鮮に向けて金正恩朝鮮労働党委員長を批判するビラを大型風船で散布した脱北者団体について、南北交流協力法違反(未承認搬出)の疑いで、警察に刑事告発すると発表した。文在寅大統領は南北融和を政権の推進力としており、異例の対応を取ってまでも対話を維持したい考えとみられる。
 北朝鮮はビラ散布に強く反発し、韓国との連絡に使用する通信線を「9日正午以降、完全に遮断、廃棄する」と表明。韓国の呼び掛けに北朝鮮が応じない状態が続いている。
 韓国統一省の呂尚基報道官によると、刑事告発の対象は脱北者団体「自由北韓運動連合」と「クンセム」の2団体。同省は両団体の設立許可を取り消す手続きにも着手した。
 呂氏はこの中で、両団体が北朝鮮への物資搬出に関する承認規定や南北首脳間の合意に違反し「緊張を高めて(軍事)境界線付近の住民の生命と安全への危険を招いたと判断した」と説明した。
 ビラ散布は過去にもたびたび行われてきたが、統一省当局者によると、最近は他国の情報が入ったUSBメモリーやラジオなど散布対象が拡大し、協力法違反に当たると従来解釈を変更した。また、住民の生命が脅かされるため「表現の自由があっても、それを制止できる」と強調した。》

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風船にビラなどをつけて風向きを計算して北朝鮮へと飛ばす

 私は一昨年10月に、この二つの団体を取材し、11月19日(月)の日本テレビ「news every」で特集「南北融和と脱北者」として放送された。
 《南北首脳会談は3回を数え、韓国はいま、かつてない融和ムードに包まれている。北朝鮮のイメージが良くなり、金正恩委員長を信頼できると考える人も急増している。韓国政府は、北朝鮮を刺激することを避けるため、脱北者の活動を規制しはじめた。
 北朝鮮から命がけで逃れ、韓国にたどり着いた脱北者たちは3万人超。なかには、融和ムードに大きな違和感を持つ人もいる。彼らは、北朝鮮が簡単には変わらないことを身をもって知っているからだ。北朝鮮の変化を促す活動は、融和ムードのなか、継続が困難に。しかし、あるユニークな方法で、北朝鮮住民への働きかけを地道に続ける脱北者たちがいた。》(放送案内より)

 いまも北朝鮮では、毎日多くの人々が政治犯収容所で命を落としている。脱北者たちは、そうした最悪の人権状況に変化をもたらしたいとの思いで活動している。本来彼らを保護、支援すべき韓国政府が、北朝鮮に迎合し忖度して、脱北者団体を刑事告発までするとは・・・

 米国を No Justice No Peace (正義なくして平和なし)のスローガンが席巻しているが、韓国政府に対しては、「人権なくして平和なし」と言いたい。

https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200612002400882

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 1997年2月初旬のこと、めぐみさん拉致疑惑が波紋を広げ、マスコミへの対応でてんてこまいの日々が続いていた横田さん夫妻に、兵本達吉氏から連絡があった。兵本氏とは、1月21日に滋さんに電話をして、めぐみさんに関する情報をはじめて知らせた議員秘書である。
 北朝鮮に拉致されたと見られる人々の家族が集まって「会」をつくろうという提案だった。

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兵本達吉氏(2002年)https://ironna.jp/article/9894

 兵本氏は1938年奈良県生れ。京都大学共産党に入党し、1978年から国会議員秘書をつとめていた。北朝鮮の拉致疑惑にかかわるきっかけは、1987年11月に起きた大韓航空機爆破事件だった。

 事件の実行犯で「蜂谷真由美」名の日本旅券をもっていた北朝鮮工作員金賢姫(キムヒョンヒ)が逮捕され、日本から拉致されてきた「李恩恵(リウネ)」という女性に「日本人化教育」を受けたと証言したことから、にわかに北朝鮮による拉致が注目されることになった。
 「李恩恵」が、幼い子どもを残したまま東京から失踪した田口八重子さんと特定されたのは、事件から4年目の1991年になってからで、それまではさまざまな憶測が流れた。その中の、1978年の「アベック連続蒸発事件」の一人が「李恩恵」ではないかとの報道に兵本氏は驚いた。

 その事件は全国紙では『産経新聞』(1980年1月7日、阿部雅美記者の記事)しか報じなかったが、兵本氏は、こんな重大事件を知らなかった自分を恥じ、すぐに調査に動いた。
 各地で「蒸発」した人の家族を一軒づつ訪ねるなど徹底した調査を行い、これをもとに、1988年3月26日の参院予算委員会で、橋本敦議員が質問に立った。
 この質疑は、「李恩恵」にはじまってレバノン女性拉致事件までを網羅しており、政府から画期的な次の答弁を引き出している。

梶山清六国家公安委員長
 「昭和53年以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければと考えておりますし、本人はもちろんでございますが、ご家族の皆さん方に深いご同情を申し上げる次第であります」

 はっきり「北朝鮮による拉致」の疑いと答えている。当時としては驚くほど踏み込んだ答弁だったが、この国会質疑は『赤旗』以外、わずか2紙がベタ記事を載せただけに終わった。
 振り返れば、拉致問題に関心を高めることができる絶好の機会だったのにと悔やまれる。


 関心のある方は、国会議事録(https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=111215261X01519880326¤t=1)をお読みください。
 詳細かつ具体的な質疑で、今読んでも興味深い。今の国会と比べると当時の質疑がとても「まとも」に思える。(梶山大臣の答弁は120)

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1997年3月25日家族会発足

 さて、1997年2月に兵本氏が横田滋さんに家族の会をつくる提案をしたさい、めぐみさん、田口八重子さんのほかに、彼が把握していた日本での拉致疑惑のケースは以下だった。
「アベック連続蒸発事件」(蓮池薫さんたち3組6人)
欧州での失踪事件(有本恵子さんたち3人)(2月のブログで連載した事件)
辛光洙(シン・グヮンス)事件の原敕晁さん

 3月25日に結成された「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」には、9人の家族が参加する。理由なき失踪という事情を抱えたつらさはみな共通だった。
 海岸の砂浜を繰り返し竿でつついて歩き回る。深夜、玄関で音がしたような気がして、帰ってきたのではと何度も見に行く。「実は家出らしい、うらで何をしていたかわかったものじゃない」と心無い噂を流される。事件のショックで寝たきりになった家族もいた。
 初対面だったが、自己紹介しあううち、すぐに打ち解けたという。はじめて分かり合える仲間ができ、横田滋さんが代表に選ばれた。

 そのころ、北朝鮮による拉致が疑われる新たなケースが浮上した。
 めぐみさんと同じ13歳の中学生が北朝鮮に連れ去られたという事件である。
(つづく)

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2019年11月撮影

 平壌南方の忠龍里(チュンリョンリ)招待所。(去年11月撮影)
 一時、めぐみさんと田口八重子さん、そしてキムスッキという女性(金賢姫氏のライバルだった工作員)と3人で住んでいたのが、右下の建物(3号棟)。
 2014年3月と比べて周囲の様子はかなり変わったが、この辺りはまだ招待所として使われているようにも思える。

takase.hatenablog.jp

横田滋さんの逝去によせて6-市川修一さんの赤いネクタイ

 横田滋さんが亡くなったことが報じられると、多くの人がその死を「申し訳ない」という言葉とともに悼んだ。私もそうだ。

 拉致被害者5人が帰国した直後の2002年10月20日、当時の皇后美智子は拉致問題をこう語っている。

 「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います」(宮内記者会への文書回答/宮内庁ホームページ)https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h14sk.html

 「自分たち共同社会の出来事」という言葉は、深い思いのこもった適切な表現だと思う。
 横田さん夫妻は、講演会などで、「ご自分のお子さんが拉致されたらと思ってみてください」と訴えていたが、拉致被害者の奪還は、国民が立場を問わず共有すべき課題ではないだろうか。 
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 安明進(アンミョンジン)氏の証言の信憑性については、もう一つエピソードがある。

 安氏が在学していた労働党工作員養成所「金正日政治軍事大学」には10人ほどの日本人教官がいたという。そのうちの一人に安氏は鮮明な記憶を持っていた。鹿児島県から1978年8月に拉致された市川修一さん(当時23歳)である。

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金正日政治軍事大学の本校。数年前と比べると屋根があらたに緑に塗られた他はあまり変わっていない。写真左端の縦に通る道路は順安(スナン)飛行場から平壌市内に入る道路で、2002年小泉首相一行もここを通ったはずだ

 市川さんは、婚約者の増元るみ子さん(当時24歳)と「夕陽を見に行く」と車で出かけ、帰ってこなかった。車は海岸のキャンプ場にとめてあり、砂浜に市川さんのサンダルの片方が残されていた。
 車の中にるみ子さんのカメラがあり、フィルムを現像すると、その日のデート中にお互いを撮り合った楽しげな二人のショットがおさめられていた。両家とも二人の交際を喜んでおり、状況からは「蒸発」は考えられない。警察の記録には「事件性を含む失踪」として残されることになった。

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1997年当時公開された市川修一さんの写真

 安明進氏はが工作員養成所に在学中のある日、日本語の上手な同級生が、休憩所にいた男性の日本人教官に話かけようと近づいて行った。同級生と日本語と朝鮮語でやり取りしていると打ち解けて、安氏らに日本のタバコ、マイルドセブンをくれたという。
 安氏に失踪者の写真を見せると、市川修一さんを指して、自信ありげに「この人に間違いない」という。
 タバコをくれたその男性を安氏はこう描写した。
 「北朝鮮の男性は髪を左分けにするのに、彼は右から分けていたので、珍しいなあと印象に残っています。それから、彼はよく赤いネクタイをつけていました。北朝鮮では大人は赤いネクタイをしない。するのは少年団員だけです」
 髪の分け方など、北朝鮮のお国柄を感じさせる証言だが、市川さんの写真を見ると、たしかに髪は右から分けている。市川さんの家族で修一さんともっとも親しかったという姉のたか子さんに話を聞いた。
 服装の好みはありましたか。
 「とくにおしゃれというわけではないのですが、どこか一ヵ所にアクセントを付けて目立たせる着こなしをしていました」
 どんなふうにですか。
 「例えば、シャツやズボンは地味にして、真っ赤なネクタイをするのが好きでした」

 安明進氏の話とみごとに重なっている。後日、修一さんの家族にお願いして何枚かの写真を送っていただいた。その中には、たしかに赤いネクタイの修一さんが写っていた。

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赤いネクタイ姿の市川修一さん

 1997年3月25日に「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」が発足するまで、拉致を疑われる被害者の家族のほとんどは名乗りをあげていなかった。若い人は信じられないかもしれないが、それまで、北朝鮮による拉致ということ自体知られていなかったのである。家族会結成のあとに公開された市川修一さんの写真は、白いハイネックのシャツ姿で、前もって安明進氏に「赤いネクタイ」が刷り込まれる余地はなかったのである。

 

 さて、北朝鮮の元工作員で韓国に亡命した人は、数十人に上るという。中には安明進(アン・ミョンジン)氏と同じ、労働党工作員養成所「金正日政治軍事大学」の先輩たちもいる。その先輩の一人が、1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏だ。(彼女が入学した当時の名称は金星(クムソン)政治軍事大学)

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金賢姫氏にグーグルマップを見せて工作機関の位置を確認した(中央は宮根さん)Mrサンデーより

 安明進氏の証言が日本で大きな反響を巻き起こすと、先輩たちは安氏の身を案じて「もうこれ以上しゃべるのはやめる」と忠告したという。彼らのほとんどは、日本人拉致を含む北朝鮮の秘密工作について証言することには及び腰だ。北朝鮮当局に睨まれると、場合によっては暗殺隊を仕向けられる。その恐ろしさを知っているからだ。

 安明進(アンミョンジン)氏は、私がインタビューした1997年2月4日時点では、顔も名前も伏せるよう要求した。
 ところが、あることをきっかけに、安氏は顔をさらしてメディアで証言するようになる。

 1997年2月に安明進氏にインタビューしたとき、私は「めぐみさんの両親に会ってみませんか」と誘ってみた。彼は即座に拒否した。
 「私は拉致した側の人間です。どのツラさげて彼女の両親に会えますか」と。

 ところが3月15日、安氏はソウルで横田さん夫妻と面会した。朝日放送の石高氏が同行取材している。

 横田早紀江さんによると、安明進氏はなかなか部屋に入ってこなかったという。
 「あとで聞いたところによると安さんは、自分がめぐみを拉致したわけではないけれど、自分もかつてそういう仲間だったことを考えると、その親に会うのが躊躇(ためら)われたとのことでした。石高さんも、事前に私たちのことを詳しくは話しておられなかったそうです。」(横田早紀江『めぐみ、お母さんがきっと助けてくれる』(草思社)より)

 石高氏は、めぐみさんの両親を連れてきていると告げずに安氏の取材アポを取ったようだ。

 「十分か十五分くらい遅れて入ってきたのは、背広にシャツとネクタイ姿の精悍な青年でした。私は『ああ、普通の人なんだなあ』と思って、主人と一緒に立ち上がって、『本当によく来てくださいました。横田めぐみの父と母です』と言いましたら、安さんは少し緊張した様子で挨拶されました」

 拉致に関する話のあと、こんな会話があったという。

 「『みなさんも犠牲者なんですね』
 私がそう口に出して言いましたら、安さんはこんなことを言いました。
 『私にも父母と兄弟がいます。向こうに残してきたんですよ。めぐみさんは向こうにいて、お母さんとお父さんはこちらにいる。そしてご両親はこれほど心配しておられる。それは僕も同じ気持ちで、父や母のことを思っているんですよ』
 『めぐみちゃんのことを私はいつもお祈りしてきましたけれど、これからは安さんのご家族の方のために、めぐみちゃんのことと一緒にお祈りさせていただきます』
 私が言うと、安さんはふっと涙ぐんだ顔をされました。」

 安明進氏は、横田さん夫妻と別れてから号泣したという。

 この面会は安氏の気持ちを大きく変えたようだ。
 そのあとは吹っ切れたように、安氏は顔出しでメディアに出るようになる。
 「殺されることも覚悟しています」と彼は私に言った。
(つづく)

横田滋さんの逝去によせて5-めぐみさんの「えくぼ」

襟元のブルーリボンはブローチか (千葉県 得重一枝)

 9日の『朝日新聞』に載った読者の川柳だが、横田滋さん死去の報に、ながく拉致問題を動かせないでいる日本の政治への不満が噴出している。
 多くの政治家が、拉致問題に取り組みますと言って、横田さん夫妻に会いに来たが、はたしてどこまで真剣なのか。

 夫妻が私にこうもらしたことがある。
 「『拉致問題で何をしたらいいか、おっしゃってください。その通りに一生懸命やりますから』と言われるのですが、何をしたらいいかを考えるのが政治家じゃないですか。それに必ず『がんばってください』と激励されますが、私たちの方が政治家の先生にがんばってと言いたいです」

 ブルーリボンバッジとは、現代の「免罪符」なのか。
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 拉致問題は1997年2月に「破裂」し、はじめて社会の関心を引くことになる。メディアが一斉に取材に動き、安明進氏に取材申請が殺到した。

 一方、彼の証言の信憑性に疑問をなげかける人々も少なくなかった。

 亡命した北朝鮮工作員は、韓国の情報機関、国家安全企画部(安企部、当時)の管轄下におかれるため、そうした人物の証言には政治的な思惑が入りやすく、場合によっては謀略がしかけられることもあるというのだ。
 安企部といえば、その前身は韓国中央情報部(KCIA)。1973年、東京のホテルから金大中氏を拉致したことで知られる、日本では悪名の高かった組織だ。
 また、亡命者が事実を誇張するため、他人に聞いたことをあたかも自分が目撃したとして語ることもありうる。

 私が安明進氏の目撃証言にいたる不思議な「めぐりあわせ」で書いたように、安明進氏や韓国安企部があらかじめ、1997年2月4日のインタビューに「めぐみさん拉致」情報を「仕込む」ことは不可能だった。「取材状況」としては、捏造を疑わせるものはない。

 また、私は2月4日のあと何度も追加・確認の取材のために安明進氏に会い、拉致関連情報だけで数十時間のインタビューをしている。仕事柄、疑ってかかる習性があり、意地悪な聞き方もしたし、くせ玉のようなひっかけ質問をあらゆる角度から投げた。その上で、めぐみさん(らしい日本人女性)目撃関連の情報については、安明進氏の証言は信用してよいと結論づけている。
 これは私の取材者としての確信である。

 何かそれ以外に、安明進氏が真実を述べていることを証明することはできないのか。北朝鮮での裏どりが不可能である以上、難しいと思ったが、つねに気にはなっていた。
 そこに、彼の証言の信憑性を占なう一つの出来事が起きた。

 1998年3月末、安明進氏は『北朝鮮拉致工作員』(徳間書店)という本を出した。
 最終ゲラを私に見てほしいと安氏が希望したため、私は出版の1ヵ月近く前に中身を読むことができた。
 読み進んでいった私は、ある言葉に引っかかった。
 「えくぼ」である。

 「彼女が笑うと深く窪んだえくぼは、見る人に心優しい印象を与えていた」

 えっ、めぐみさんは「えくぼ」があったのか!?

 横田さん夫妻には繰り返し取材しているが、めぐみさんに「えくぼ」があったという話は聞いたことがない。めぐみさんに関する新聞、雑誌の記事のファイルをすべて読み直したが「えくぼ」の記述はない。

 安氏の勘違いか。
 ひょっとすると、安氏が見たというのはめぐみさんとは別人なのでは。
 私はとんでもない誤報をやらかしてしまったのか。

 ゲラを読んだ翌日の3月5日、いてもたってもいられず、横田滋さんに電話を入れた。
 
 めぐみさんには「えくぼ」があったんですか。
 「ありましたよ」
 これまで、「えくぼ」の話をマスコミなどに語ったことはありますか。
 「そう言われてみると、話したことはなかったと思います」
 警察には?
 「警察にも話していません」

 すぐに川崎市の自宅を訪ねた。

 滋さんとは違って、早紀江さんは「えくぼなんてあったかしらね」と言う。
 アルバムのページを繰って、めぐみさんの小さい頃へとさかのぼっていくと、「えくぼ」を確認できる写真が出てきた。

 「そうそう、あの子、笑った時にキュッとほっぺがくぼむのね」と、早紀江さんは思い出にひたるように、じっと写真を見つめている。
 唇の端のすぐそばに小さく出るえくぼではなく、にこっと大きく微笑んだときに限って頬の中ごろが深く窪むタイプのえくぼだ。普段は出ないため、早紀江さんは「えくぼ」の存在を忘れていたという。

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えくぼは右頬の方が大きく出ている

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頬の中央が大きく窪むタイプのえくぼ

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えくぼが出やすい筋肉の構造が分かる

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年齢が上になるとめぐみさんはカメラに顔の左を向けるようになり、確認が難しいが、右頬にかすかにえくぼが見える

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北朝鮮で成人しためぐみさん。えくぼが「心優しい印象を与えた」という

 「えくぼ」は滋さんの家系の遺伝だそうで、そういわれると、めぐみさんの顔の下半分は滋さんに似ているような気がする。
 滋さんにとっては、えくぼがあるのは当たり前で、あらためて、めぐみさんの「特徴」として意識することはなかったという。

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えくぼの記述は135頁にある

 安明進氏の言うとおり、「えくぼ」はあった。
 そして、あらかじめ安氏が「えくぼ」の存在を知ったうえで作り話をすることは絶対にできなかったのである。
(つづく)

横田滋さんの逝去によせて4-初めての署名活動

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自宅玄関前でのめぐみさん

 拉致問題を取材した記者たちが、それぞれ横田滋さんの人柄を偲ばせるエピソードを書いている。

 「滋さんは、テレビに若い歌手が登場すると、歌が好きだった娘とダブらせ涙をこぼし、風呂で湯船につかって独り泣いている姿も拓也さんが見ていた。家族には『強い父』というより『愛情深い父』だった」
 「神奈川県の自宅で取材後、帰りにタクシーの運転手がこう教えてくれた。『横田さん夫妻はタクシーには乗らない。雨の日も風の日もバス停にいる』。当時、家族会には多額の寄付が寄せられていたが、タクシー代に使うのは『申し訳ない』と固く思っていた」(北海道新聞「評伝」太田一郎記者より)

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北海道新聞「評伝」(有田芳生議員のツイッターより)

 6月5日のブログに、横田さん夫妻がテレビ局までの交通費を自腹で払っていたと書いたが、補足すると、それはバスと電車の料金のことだ。

 一緒に電車に乗ったことがある。アイドルなみに顔を知られた夫妻のこと、乗客がすぐに気づいて「応援しています」、「お体に気を付けて」などと声をかけてくる。二人はいちいち「ありがとうございます」、「よろしくお願いします」と丁寧に対応していた。

 私なら煩わしくていやになるだろう。拉致問題という国民的課題の象徴である二人の立場を考えれば、セキュリティ対策として、政府から専用車と護衛をつけてもおかしくないと思う。(夫妻はきっと断っただろうが)

 体のあちこちに不調を抱え、高齢を押して全国で1400回超の講演をこなしながら、公共交通機関で移動するという身の律し方に、「古き良き日本人」という言葉が浮かんでくる。

 横田さん夫妻の活動には、講演や取材対応などのほか街頭署名もあった。

 私は、滋さんと早紀江さんがはじめて街頭に立ったときに取材している。その署名活動が行われたのは、めぐみさんが拉致された新潟だった。

 新潟では、早くも96年の年末に(!)、小島晴則氏(1977年の『新潟日報』のめぐみさん失踪記事を探して「現代コリア」に送った人物―6日のブログ参照)が、「横田めぐみさん拉致究明救出発起人会」を立ち上げていた。

 めぐみさん拉致疑惑の情報が広がり始めたのは、翌97年1月上旬に「現代コリア」がホームページに載せた時から、また共産党議員秘書の兵本達吉氏が横田家に電話をしたのが1月21日だから、この「発起人会」はそれよりはるか前に発足していた。

 この早い動きの背景の一つは、めぐみさん失踪から20年が経っていても、それが市民の記憶に残っていたことだ。新潟ではそれほど大きな出来事だった。

 「行方不明者の捜索としては、あの事件は、新潟県警はじまって以来の大規模なものでした。ヘリコプターが二台出て海岸線をくまなく捜し、潜水要員が海底を調べました。ここまでやって何も出てこないとは、実に不思議な事件だなあと、みな首をかしげました」(事件当時、新潟中央署の巡査部長だった小林貞雄氏)

 

 1997年4月12日、日曜の買い物客でごったがえしていた新潟市の繁華街、古町(ふるまち)交差点に、20人ほどがのぼりやハンドマイクを用意して集まっていた。
 そこに到着した横田さん夫妻に、小島氏が、これをかけてくださいと「たすき」を差し出した。

 たすきの前には「めぐみの父 横田滋」「めぐみの母 横田早紀江」、後ろには「めぐみ救出にご支援を」と大きく書いてある。まるで選挙の立候補者である。
 たすきをつけるとき、二人ともちょっと恥ずかしそうな表情だったのを覚えている。街頭で何かを訴えたことなど、これまで一度もなかったのだから、気後れするのは当然である。

 「北朝鮮に拉致された横田めぐみさんを救出しましょう」とハンドマイクから声が流れ、署名が始まると、通りかかった人が署名用紙の置かれた机に吸い込まれるように集まってきた。順番を待つ人の列がいくつもできた。並んで立つ夫妻に、新潟時代の知り合いが次々に駆け寄ってきた。
 ボランティアの運動員の中には、めぐみさんの中学の同級生たちもいて、署名用紙を持って通行人のなかに分け入っていた。
 滋さんが意を決したように自らマイクを持って「めぐみの救出のためにお力添えください」と訴え、早紀江さんもそれに続いてマイクを握った。

 娘を助けるのに恥ずかしいなんて言っていられない。
 「闘う親」に脱皮した瞬間だった。

 「私も娘がいるので、人ごととは思えません」とたくさんの人が声をかけていく。
 署名活動は大成功だった。

 小島氏は、10人の署名欄のある用紙を1万枚印刷していた。そのうち新潟県内だけでなく全国から、署名用紙を送ってくれとの依頼が届くようになる。

 滋さん、早紀江さんが街頭に立った新潟での活動から、拉致被害者救出の署名運動が全国に広まっていったのである。
・・・・・・・・・・・・・
 安明進氏による目撃証言は、めぐみさん拉致のはじめての「証拠」だった。


 自分の目でその女性を見ているうえ、拉致実行犯である当時の教官(工作員養成所の先輩でもある)から直接話を聞いている。それをテレビカメラの前で語っているのだから、証言としての価値は高い。

 では、石高リポートで情報の出元とされた、韓国に亡命した工作員安明進氏なのか。
 二人の証言内容を比べてみると―
              【安明進氏】   【石高リポートの「元工作員」】
 拉致された場所      「新潟」       「知らない」
 拉致された時期      「70年代」      「おそらく76年」
 クラブ活動        (情報なし)     「バドミントン部」
 拉致された時の年齢    「とても幼い」    「13歳」
 家族関係         (情報なし)     「双子の妹」(注)
 拉致された後の状況    (情報なし)     「精神に異常をきたし入院」
 目撃・認識した場所    「工作員養成所」   「ある病院」
 拉致実行者        「養成所の教官」   (情報なし) 
(注:実際は、めぐみさんの弟が双子。ただ「双子」というキーワードが重要である)

 安明進氏が韓国に亡命したのが1993年9月、石高リポートの元工作員は94年暮れだという。
 明らかに同一人物ではない。ということは、めぐみさん拉致の証言者が、複数いるということになる。

 実は、安明進氏が訓練を受けた労働党工作員養成所、「金正日政治軍事大学」出身の工作員で、韓国に亡命した人は、私が知るだけでも数人いる。安明進氏以外の亡命工作員が、めぐみさんなど日本人拉致被害者の情報を持っていることは、十分にありうることなのだ。

 では、なぜ他の人は、証言者として表に出てこないのか。

 その大きな理由に、韓国での自分の身の危険と、北朝鮮に残してきた親族や関係者への仕打ちへの懸念がある。

 まず、北朝鮮からの亡命者にとって、韓国が安全な場所とは必ずしも言えないという事情がある。

 安明進氏の証言をテレビ朝日ザ・スクープ」が緊急特集で放送したのが1997年2月8日だが、そのちょうど1週間後の土曜日の2月15日、韓国で一件の殺人事件が起きた。

 ソウル近郊の城南市書峴洞・現代アパート(418棟1402号)のエレベーター前で、1人の男性が二人組の男に頭を拳銃で2発撃たれ10日後死亡、犯人は逃走した。
 殺されたのは、当時の北朝鮮の最高指導者、金正日の甥にあたる李韓永(イ・ハニョン)氏。金正日の元妻(正式には結婚していない)成蕙琳(ソン・ヘリム)の実姉・成蕙琅(ソン・ヘラン)の息子で、マレーシアで暗殺された金正男の従兄にあたる。れっきとしたロイヤルファミリーの一員である。

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前列左が金正日、右が金正男、後列左がソンヘラン、右端が李韓永(一男)

 モスクワとジュネーブで留学したのち、1982年に韓国に亡命した李氏(出生名は一男イルナム)は、整形し改名して身分を隠していたが、金一族の暴露本を出版し(『平壌「十五号官邸」の抜け穴』ザ・マサダ)、メディアの取材に応じるなどしたことで、金正日の怒りを買ったとみられる。

 暗殺を実行したのは、韓国に潜入した北朝鮮工作員だった。

 ちなみに、彼が銃撃された20年後の2017年2月13日、マレーシアの空港で金正男が暗殺されている。いずれも暗殺実行日は金正日の誕生日2月16日の直前。忠誠を捧げるバースデープレゼントである。

 北朝鮮の工作機関は、ターゲットが世界のどこにいても暗殺をためらわない。
 韓国に亡命した元工作員たちは、それをよく知っているからこそ、北朝鮮当局を刺激するような「証言」にはきわめて慎重になるのだ。

 実は、安明進氏は、1997年2月の私のインタビューのときは、顔出しはせず、名前も伏せるよう要求した。そこで「ザ・スクープ」では、顔を隠し、「元工作員A」として放送している。

 しかし、ある出来事が、彼に顔をさらしてメディアに出る覚悟をさせたのだった。
(つづく)