新型肺炎めぐって噴き出す「言論の自由」の叫び

 新型コロナウイルスによる肺炎の拡大が止まらない。中国の専制的な政治体制が初期対応を誤らせたことは明白だ。これは「人災」だとして、体制批判につながる気配が出てきた。
 《改革派の弁護士や学者が李克強首相らに対し、言論の自由を求める書簡をインターネット上で公開した。感染の発生に早くから警鐘を鳴らした湖北省武漢市の眼科医李文亮さん(33)の死去を受けたもので、感染拡大を「人災」と批判している。》

 李文亮(Li Wenliang)医師(34)は、早くも昨年12月に新型ウイルスについて警鐘を鳴らしたが、湖北省当局から訓戒処分を受け、これ以上「違法行為」をしないとする合意書への署名を強制された。李医師は、今月1日にウイルス感染が確認されたこともSNSで公表していたが、6日亡くなった。

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李医師。いまSNSでは「英雄」である

 書簡は、《李首相や共産党ナンバー3で全国人民代表大会常務委員長の栗戦書(リーチャンシュー)氏、「全国の同胞」に宛て、8日に公開された。著名な人権派弁護士の王宇氏や北京大学法学部の張千帆教授ら改革派の弁護士や学者ら28人の署名が記されている。
 今回の感染の拡大について「言論の自由の圧殺が招いた『人災』だ」と指摘。「言論の自由の抑圧は社会にとって最大の災難である」と記している。その上で、思想や言論などが原因で処罰を受けた人の釈放や、自由な報道やネット上の自由な言論の開放などを要求。警察が李さんを訓戒処分としたことに対し、湖北省武漢市の責任者が公開謝罪することも求めている。》(朝日新聞 北京=高田正幸)

 2月6日を「言論の自由」の日にしようという声も上がっているとのことで、この動きに危機感をもった当局が弾圧に乗り出したという。

 また、高まる体制批判の声に対する検閲も強まっている。
 《6日夜、ウェイボーではハッシュタグ「李文亮医生去世」(李文亮医師が死去)が検索ランキングで首位となり、閲覧回数は10億回、コメント数は110万件を超えた。だがこのハッシュタグは7日朝までにトレンド上位20位から姿を消した。香港大学で中国の検閲パターンを研究している傅景華准教授はAFPに対し、「ランキングは操作されたようだ」と指摘した。
 傅氏によれば、李医師死亡のニュースの扱いは、中国共産党を批判し獄中死したノーベル平和賞受賞者の劉暁波氏死去時に行われた検閲と「類似している」という。》(AFP)


 閲覧回数10億回!李医師が英雄視され、中国共産党への不満がわだかまるのを抑えようとしているのだろう。

 それにしても、弾圧、検閲で異論を抑え込もうとする権力に対して、声を上げ続ける人々がいることは希望であるし、尊敬に値する。日本からも連帯の思いを伝えたいものだ。

 国際的にも、新型ウイルスの対策会議から台湾を排除するなどの中国の対応が批判され、ようやく今日から台湾も参加することになった。
 《11日から始まった世界保健機関(WHO)の緊急会合に、中国の圧力でWHO会合から締め出されていた台湾の専門家も参加が認められた。
 台湾の専門家は「台北」からの参加と位置づけられ、テレビ会議の形式で参加が認められた。》(朝日新聞)

 

 中国がらみで映画の話を。
 『淪落の人』という香港映画が、今月から日本で上映されている。
 2014年の「雨傘革命」を支持し香港政府を批判したため、中国、香港の映画界から干された名優アンソニー・ウォン(黄秋生)がノーギャラで主演しているといういわくつきの映画だ。

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 「一国二制度」がゆらいで香港の自由が危機に立たされているが、それは映画界にも及んでいる。中国政府による検閲があるうえ、本土の資本を頼る合作映画が増加。急成長する中国映画と裏腹に香港映画は衰退しているという。
 仕事がなくなって経済的にも苦境に立たされたアンソニー・ウォンだが、32歳の新人女性監督による低予算映画『淪落の人』にほれこみ、ノーギャラで出演することに決めた。


 ストーリーは・・
 突然の事故で半身不随となった男がアンソニーが演じる主人公。妻とは離婚、息子とも離れて暮らし、人生に何の希望も抱けないまま、ただただ日々を過ごしていた。
 そこにフィリピン人女性が新米の家政婦としてやってくる。言葉も通じずに男はイライラを募らせるが、女性がある夢を追い求めていることを知った男はそれを応援しようと思い立つ・・というもの。
 人間っていいものだな、と素直に感動できる佳作だと思う。香港の四季の情緒も堪能できてとてもよかった。
 「ぴあ映画初日満足度1位」(2月1日ぴあ調べ)になったとか。お勧めです。

 

(有本恵子さん拉致の全貌、つづきは次回に)

有本恵子さん拉致の全貌 4-八尾恵の法廷証言

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よど号ハイジャック事件(1970年)

 「恵子さんは私が拉致しました!」

 泣きながら、恵子さんの両親、明弘さんと嘉代子さんに土下座して謝った「よど号」犯の元妻、八尾恵

 八尾は、東京地裁で2002年3月12日と3月26日の2回にわたり検察側証人に立ち、「よど号」グループと北朝鮮の日本人拉致に関する証言を行なった。

 検察官の質問に答えるその口調は淡々としていたが、語られる事実はこれまで知られていなかった驚くべきもので、傍聴していた私は興奮でメモをとる手が震えた。
 以下が法廷証言の抜粋である。

 《「日本革命村」は、平壌郊外の元新里(ウォンシンリ)にあり、「よど号」犯とその8人の妻たちが一緒に暮らしていました。革命村では互いに本名を呼ばず、私は「中山明子」と呼ばれていました》

 《革命村は一般人が自由に出入りできないところにあり人民軍が歩哨に立っていました。居住用のアパートのほか、事務所、田宮(注:リーダーの田宮高麿)のアパートのほか、事務所、田宮の執務室、食堂、娯楽室、そして朝鮮労働党連絡部56課の指導員の事務所もありました。56課は、金日成の教示の日付(5月6日)から命名され、よど号グループのための専属の部署で、金正日が直轄していたと理解しています

 その金日成の教示とは「革命の代を継ぐ」、つまり結婚して子どもをつくれというものだった。

 《1975年5月6日、金日成主席がよど号グループに謁見し、日本革命のためには、代を継いで革命を行なって行かなくてはならない、よど号グループも結婚相手を見つけるようにと教示されたと田宮などから聞きました》

 朝鮮労働党連絡部」は工作機関である。証言によれば、「よど号」グループには、56課という専属部署が設けられ、北朝鮮の工作機関の一部に組み込まれていたという。隔離された世界で、思想学習の他、射撃などの軍事訓練やスパイ教育も受けていた。
 
 そして八尾に拉致指令が下される日がきた。

 《1983年1月ごろ、革命村の田宮の執務室で、私と福井さん(注:小西隆裕の妻、福井タカ子)に任務が与えられました。田宮は「ロンドンに行って、日本人の指導中核となる人、特に若い女性を連れて来い。25歳以下の若い女性がいい、何人でもいい」と指示しました。》

 八尾はこれを聞いて、おや、と思ったという。それまでは男性、女性と性を指定されることはなかったからだ。

 《田宮は「男性ばかり獲得したやろ。女性も獲得せなあかん」と言いました。私は、これは結婚させて子どもを産ませるのだなと思いました。森さんと黒田さんがスペインから男性を二人「獲得」してきたことを知っていたからです。男性とは会ったことはありませんが、男性二人を連れてきたことは「経験発表」で聞きました》
 
 前回のブログで紹介した石岡亨さん、松木薫さんの拉致は、日本人「獲得」の成果としてメンバーに共有されていた。八尾は、自分に与えられた任務が、彼らの配偶者を拉致することだと理解した。

 83年3月に八尾は福井とロンドンで対象者を探すが見つからず、5月に一人でロンドンに行った。日本人も多く学ぶ「インターナショナルハウス」という語学学校に入った八尾は、そこで有本恵子さんと知り合うことになる。5月末のことで、恵子さんがそろそろロンドンを引き払い帰国する予定を決めようとしていたころだった。

 獲得対象の条件は、思想的に無色、性格は正直で素直、まっすぐ、義理堅い人、親戚に警察関係がいない人、親とのしがらみがなく自由に行動できる人だった。恵子さんはぴったりあてはまる対象者だった。

 ホームステイで、そこの家族とイギリス風の食事をしていた恵子さんは日本食に飢えていた。八尾は自分のアパートに呼んで、カレーライスや水炊きなど日本食を作って恵子さんを喜ばせた。

 八尾が恵子さんと同じ兵庫県出身(尼崎生まれ)だったこともあり、二人は急速に親しくなった。5歳年上の八尾は、恵子さんにとって信頼できる「お姉さん」だった。
 
 八尾の告白本『謝罪します』文藝春秋)には恵子さんについてのこんな記述がある。

 「彼女は、もともとは引っ込み思案で慎重な女性だったそうです。両親の反対を押し切ってロンドンに出てきたことも、彼女にとっては大変な決断であり冒険でした。

 『出てくるのに、すごい勇気がいってんよ』

 ロンドンに来て、彼女はいろんな生き方をしている人と出会い、ますます自由な生き方に憧れるようになっていました。まもなく学校の勉強も終わり、

 『日本に帰るしかないかなあ、でももったいないなあ』と迷い、日本に帰ったらもう二度とヨーロッパには来れないと彼女は残念がっていたのです。私は、有本さんの中にいろんなものへの好奇心がむくむくとあふれるように湧いてきているのを感じました」(P265-266)

 八尾はそんな有本さんの心情を観察しながら、北朝鮮に連れて行くための口実を考え、誘う機会を探っていた。6月のある日、日本食を作ってご馳走したとき、そのチャンスがやってきた。

 《有本さんが「もう日本に帰らないといけないけど、せっかく思い切って日本から出てきたのだから、できればもう少し世界を見たい。お金もないので、働きながらもっと世界を見て回れたらいいな」と話したので、私は「市場調査のいいアルバイトがあるんだけど、一緒にやらない」と誘ってみた》

 《有本さんは『おもしろそう。もし仕事があるならやってみたいな』と関心を示しました

 恵子さんが日本の友人に「もう帰りの切符も買ったのですが、今、突然と仕事が入って来たのです」と書き送ったのは、八尾の誘いの直後だったと思われる。

 八尾はいったん旧ユーゴスラビアザグレブ(「よど号」犯グループの欧州作戦の拠点)に行き、「よど号」担当の「労働党連絡部56課」の指導員、キム・ユーチョルとチェという指導員、「よど号」犯の安部公博(注:現在は魚本姓)にくわしい報告をおこなった。

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魚本(安倍)公博http://www.police.pref.hyogo.lg.jp/teikyo/rachi/index.htm

 キム・ユーチョルは「56課」の副課長で、ザグレブ北朝鮮領事館の副領事の肩書を持っていた。日本語はペラペラで、「ウツノミヤ・オサム」名義の日本のパスポートも持っていたという。

 北朝鮮領事館から平壌の田宮にテレックスで有本さんの件を報告すると、まもなく平壌から最終的な「承認」がテレックスで返ってきた。

 有本恵子「獲得」作戦が実行に移されることになった。

 八尾はロンドンの恵子さんに電話をかけて、アルバイトの依頼者に紹介するためと言って、コペンハーゲンで会う約束をした

 八尾が恵子さんとコペンハーゲンで会ったのは83年7月15日。恵子さんが神戸の実家に出した絵ハガキに、7月15日に「友達」に会うと書いたとおりだった。

 7月15日の昼、八尾はコペンハーゲンの中央駅で恵子さんと会い、夕方、連れ立って中華料理店に行くと、安部公博がすでに来ていた。

 安部はアルバイトを募集している貿易会社の社長の役を演じて「市場調査のアルバイトをしてもらいたい。北朝鮮で仕事があるので行ってくれないか」と持ちかけた。

 遅れて現れたキム・ユーチョルを八尾は、安部の取引先で、北朝鮮で貿易の仕事をしている「キンさん」と恵子さんに紹介した。

 《キム・ユーチョルはパンフレットを見せながら、「私は北朝鮮で生産したもの、青磁朝鮮人参などを外国で売っている」と話しかけました。安倍は市場調査について「北朝鮮ではどういうものが作られ、どういう国にどういうものが売れているかなどについて調べる仕事だ」と説明しました》

 《安倍は「北朝鮮で市場調査をしている間の滞在費、旅費は全部タダやで。日本と違って社会主義でおもしろいよ。ついでに見学でもして勉強してくれば」と勧めました》

 《私は初めて聞いたふりをして、「へえー、おもしろそうだな。行ってみようかな」と言って有本さんを見ると、有本さんは「一緒に行ってくれるなら、行ってみようかな」と言いました。安倍は私に「あなたはその前に別の仕事をして、遅れて行ってもらいたい」と言うと、有本さんはちょっと不安そうでしたが、「後から必ず来てくれるのだったらいい」と言いました。キム・ユーチョルは有本さんに「パスポートを預からせてほしい」と言い、有本さんはパスポートをキム・ユーチョルに渡しました。出発は次の日と決めて、その場でいったん別れました》

 3人で役柄を決めて恵子さんを騙すやり取りが生々しく語られている。恵子さんの決心を後押ししたのが、八尾も「一緒に行ってくれるなら」という条件だった。

    恵子さんは翌日7月16日、キム・ユーチョルとともに北朝鮮に向かうことになった

 《私と有本さんはコペンハーゲンカストロップ空港で、安部とキム・ユーチョルに会いました。私と安倍はコペンハーゲンに残り、キム・ユーチョルと有本さんがモスクワに向かいました。私たちは搭乗口に向かう有本さんを見届け、飛行機を見送りました》

 八尾は後に、石岡亨さんの親友(棟方周一さん)への手紙により詳しく、こう書いている。
 有本恵子さんは、7月16日、コペンハーゲンカストロップ空港から、『ホン・スッキム』という名前で北朝鮮の公民旅券を使って、モスクワ経由でキム・ユーチョルと一緒に北朝鮮に入国しました」(『平壌からの手紙』P168)

 《そのあと私はまた若い女性を「獲得」するためにロンドンに戻り、安部は別の活動に移りました》

 こうして有本恵子さんは北朝鮮へと向かった。

    そこで恵子さんを待っていたのは何だったのか。
(つづく)

有本恵子さん拉致の全貌 3

 1988年に札幌に届いた一通の手紙は、欧州で行方不明になった3人の日本の若者たちが北朝鮮にいることを伝えていた。

 1980年に行方不明になった石岡亨さん(当時23歳)と松木薫さん(当時26歳)、そして1983年にコペンハーゲンで消息を絶った有本恵子さん(当時23歳)である。

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留学中の有本恵子さん

 この手紙には奇妙な特徴があった。

 縦横に折り目がついていて、折りたたむと大きめの切手くらいになり、掌に隠すことができる。

 手紙には英文で、Please send this letter to Japan (our address is in this letter) ―この手紙を日本に送ってください(住所は手紙の中にあります)―と書いてあり、さらに家族にあてて、「この手紙を送ってくれた方へ、そちらからも厚くお礼をしてくれます様御願いします」と頼んでいる


 切手と消印からは、ポーランドで投函されたことが分かった。(のちに、石岡さんから平壌で手紙を託された人物も判明した)

 以上からこんな推測が可能ではないだろうか。

 なんとか生きていることだけは家族に知らせたい。だが、日本への連絡はとうてい許されない。手紙を書いて外出するときは掌に隠し持っていた。平壌を訪問中の外国人に接触したチャンスを待ちながら・・。

 「事情あって、欧州に居た私達は、こうして北朝鮮にて長期滞在することになりました」
 これ以上は書けないというギリギリに抑制された表現。この手紙は命がけで書かれた3人の「生存証明」だったのではないか。

 
 石岡さんと松木さんは、「よど号」犯の妻たちによってスペインからオーストリアのウィーンへの旅行を誘われ、その後「共産圏」を経て北朝鮮へと渡っていた。

 では、有本恵子さんは誰がどのようにして北朝鮮へと連れて行ったのか。

 2002年3月12日、東京地裁104号法廷でその謎は解き明かされた。

 そこで開かれたのは、よど号」犯の妻、赤木(旧姓金子)恵美子の第3回公判。彼女は前年に帰国すると同時に逮捕され、旅券法違反などの容疑で起訴されていた。

 旅券法違反とは「北朝鮮工作員と認められる人物と接触する等の海外における行動にかんがみ」、「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行動を行なう虞(おそれ)があると認めるに足りる相当の理由がある者」(1988年8月6日付け官報)として出されていた旅券返納命令に従わなかったことを指す。

 1988年の時点で、捜査当局はすでに「よど号」グループが北朝鮮の秘密工作に深く関与していた事実をつかんでいたことを示している。 
 
 この日証言に立つのは、同じ「よど号」犯の妻として、赤木恵美子のかつての同志だった八尾恵(やお・めぐみ)。

 八尾はすでに前年、『週刊新潮』に載せた3回の手記で、「よど号」犯とその妻たちが日本人拉致に直接に関与したと暴露し、家族会はじめ関係者に大きな衝撃を与えていた。

 警察と検察は、01年9月の赤木恵美子逮捕から十数回にわたり「参考人」として八尾を聴取。同年12月23日、八尾は恵子さん拉致に自分が関わったと供述したとされ、彼女の立場は、赤木事件の「参考人」から有本恵子拉致事件の「被疑者」へと変わっていた。

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八尾恵の告白本『謝罪します』(文藝春秋02年6月出版)

 八尾の法廷証言を翌日に控えた3月11日、警察庁有本恵子失踪事件の捜査本部を設置したことをマスコミがいっせいに報じた。テレビ朝日は、八尾が有本夫妻の足もとに土下座し、「恵子さんは私が拉致しました」と泣き崩れるスクープ映像を11日夕方ニュースから流し始める。八尾は3月2日に横浜のホテルで有本夫妻に会って謝罪しており、テレビ朝日はこれを独占取材していたのだった

 こうして3月12日の八尾の法廷証言には国民的な関心が寄せられ、傍聴席には、有本明弘さんと嘉代子さん、横田めぐみさんの両親の滋さんと早紀江さん、多くのマスコミ関係者、さらには「よど号」犯の娘3人(前年に帰国していた)まで姿を見せた。

 当日の主要紙朝刊一面トップはすべてこのニュースで、「『有本さん、北朝鮮に拉致』/『よど号』メンバー元妻供述/警察庁が捜査本部」(朝日)などの大見出しが躍っていた。

 肩まで長い髪をバレッタでまとめた八尾恵は、オレンジ色のスーツ姿で背筋をまっすぐに伸ばして法廷に入ってきた。歩きながら満席の傍聴席をゆっくり見回す。そこには「よど号」犯の子どもたちやかつての同志、「よど号」犯の支援者もいる。八尾の口元には、意外にも微笑みが浮かんでいた。

 差し違える覚悟だな・・・私は彼女の表情を見てそう思った。

 八尾はこの日、有本恵子さんの拉致に関わったことを告白したうえ、「よど号」犯とその妻たちによる日本人拉致工作の全貌を暴露した。

 これは法廷における証言として高い信憑性が与えられ、この半年後の小泉首相の訪朝(02年9月18日)をはじめ、その後の拉致問題の状況全体に大きなインパクトを与えることになったのである。
 (つづく)

有本恵子さん拉致の全貌 2

 1983年、英国留学を終えた有本恵子さん(当時23歳)だが、予定した8月9日の帰国便には乗っていなかった。

 「市場調査の仕事をしている」という手紙が一度来たきりで恵子さんは消息を絶ち、両親(明弘さんと嘉代子さん)はじめ家族の心配は募った。外務省や警察にも問い合わせたが何の情報もないまま、時間が過ぎていった。

 家族は恵子さんの名前を口にすることが少なくなっていった。口にしてもつらいだけだったから。

 「死んだと思おうとしましたが、思い切れませんでした」と嘉代子さんは当時を振り返っていた。

 1988年9月6日朝10時、神戸の有本家の電話が鳴った。ちょうど洗濯を終えた嘉代子さんが受話器を取ると「有本恵子さんは、お宅ですか」と女性の声。

 恵子さんがいなくなって5年、その娘の名前を突然聞かされ、嘉代子さんはすぐには言葉が出なかった。

 「おたくのお嬢さんは、息子と一緒に北朝鮮平壌にいうみたいなんです」

 電話は札幌からで、その女性の息子、石岡亨という人も欧州で失踪したというではないか。

 生きていた!と喜びがこみあげた。

 石岡亨さん(当時22歳)は、日大農獣医学部を卒業直後の1980年3月、パンとチーズ作りの本場を見たいと、新潟からハバロフスクに飛び、シベリア鉄道で欧州に向かった。音信が途絶えたのは出国後2ヵ月ほどたったころだった。その息子から8年ぶりに手紙が届いたという。

 「家族の皆様方、無事に居られるでしょうか。長い間心配を掛けて済みません。私と松木薫さん(京都外大大学院生)は元気です。途中で合流した有本恵子君(神戸市出身)供々、三人で助け合って平壌市で暮らして居ります。事情あって、欧州に居た私達は、こうして北朝鮮にて長期滞在することになりました。基本的に自括(ママ)の生活ですが当国の保護下、生活費も僅かながら月々支給を受けて居ます。

 但し、苦しい経済事情の当地では、長期の生活は苦しいと言はざるを得ません。特に衣服面と教育、教養面での本が極端に少く、三人供に困って居ります。取り敢へず、最低、我々の生存の無事を伝へたく、この手紙をかの国の人に託した次第です。とに角、三人、元気で暮らして居りますので御安心して下さる様御願い至します。・・」

 筆跡も、旧仮名遣いを好んで使う癖も石岡さんのものだった。

 封筒の裏には石岡亨さんの名前と「平壌にて」という文字がある。本人たちであることを証明するかのように、石岡さんと恵子さんの写真、旅行保険証書が同封されていた。また、なぜか赤ちゃんの写真も添えられていた

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1988年に札幌の実家に届いた石岡亨さんの手紙

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1988年に届いた手紙に同封されていた恵子さんの写真

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なぜか赤ちゃんの写真も

 手紙の最後には松木薫さんと恵子さんの実家の住所を記し、連絡するよう家族に依頼している。

 手紙に登場する松木薫さんは、スペイン語を勉強するために留学中だった熊本出身の男性(当時26歳)で、やはり1980年に行方不明になっていた。

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松木薫さん

 この石岡亨さんの手紙によって、欧州で失踪した3人の日本の若者が北朝鮮にいることが判明したのである。

 切手と消印から、手紙はポーランドで投函されたことが分かった。「この手紙をかの国の人に託した・・・」と書かれている。手紙すら自由に出せない境遇にあるらしい。

 彼らはなぜ北朝鮮にいるのか。
 その謎を解く一枚の写真がある。

 この写真は1980年4月中旬、スペインのバルセロナ動物園で撮影されたものだ。撮ったのは、石岡さんとバイト先で知り合い、一緒に欧州に向かったNさんという友人。スペインまで同行し、そこで別れたという。

 この写真は94年3月31日号の「週刊文春」の「日本人留学生失踪事件 平壌に連行したのは「よど号」の妻たちだった」という記事に載った。

 ベンチで微笑む石岡さんの隣に二人の女性が写っている。この二人はいったい誰なのか。

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右から石岡さん、森順子、黒田佐喜子

 この写真が撮られて1か月半後の6月3日、石岡さんは日本の友人にハガキを出している。ウィーンからだった。

 「拝啓、国を出て、早や、2 months経過しています。現在オーストリアのウィーンに滞在中ですが、(略)スペインのマドリッドで知り合った人達と共に四人で共産圏を旅して来ます。スペインには七月に戻る予定です」。

 四人とは、石岡さん、松木さんとあの写真に写る二人の女性たちのことだ。二人の正体はよど号」ハイジャック犯、田宮高麿の妻、森順子(よりこ)と、同じく若林盛亨(もりあき)の妻、黒田佐喜子であることが判明する。

 1970年にハイジャックした日航機「よど号」で北朝鮮に亡命した9人の赤軍派活動家の動静はその後断片的にしか伝えられてこなかったが、1992年になって、「よど号」犯のほとんどが日本人女性と結婚し子どもももうけていた事実があきらかになった。

 ここにきて、「よど号」犯とその妻たちが、日本人拉致に関与したという新たな疑惑が浮上したのである。
(つづく)

有本恵子さん拉致の全貌 1

 有本恵子さんはどのようにして拉致されたのか。

 ジン・ネットの取材班は、恵子さんの母親、有本嘉代子さんとともに恵子さんの足取りを追って欧州各国を取材し、2001年11月に「『よど号』よ!娘を返せ-欧州拉致事件の真相-」と題する特集を「サンデープロジェクト」で放送した。以下はその取材成果である。

 神戸市外国語大学で英語を学んでいた有本恵子さんが、卒業を控えた1982年3月、「ロンドンに留学させてほしい」と言いだしたとき、有本夫妻(父親の明弘さんと母親の嘉代子さん)は反対した。

 若い娘が一人で外国で暮らすのはそもそも心配だったし、なにより、おとなしい恵子さんがそんなことを考えていることに仰天した。恵子さんは、小さいころから引っ込み思案で、他人の後をついていくばかりの女の子だったからだ。

 だが意外にも、恵子さんがアルバイトでお金を貯め、すでに英国の語学学校の入学手続きまで済ませていることを知り、両親は結局、恵子さんの留学を許すことにした。

 人はあるとき、思い切って自分のこれまでの殻を打ち破りたい衝動にかられることがある。もしかすると恵子さんは、消極的な生き方から脱皮する一つのきっかけを留学に託したのかもしれない。

 恵子さんは4月10日、ロンドンへと出発した。

 出発前、明弘さんは「お金は絶対に出さへんで」と恵子さんに言い渡した。仕送りなどしたら恵子さんが日本に戻ってこなくなるのでは、と懸念したからだ。

 実際、英国滞在中に実家からは1円の援助もなく、恵子さんはホームステイ先の家でベビーシッターのアルバイトをし、出費を切り詰めて堅実に暮らしていた。

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恵子さんは左手の指を口に含む癖があった

 恵子さんは約束どおり、83年の6月末に帰国するはずだった。恵子さん自身も帰国するつもりでいたことは、5月のゴルデンウィークにすぐ下の妹と叔母がロンドンに遊びに行ったさい、洋服など荷物の一部を神戸に持ち帰ってもらっていたことでも分かる。


 恵子さんは6月6日、帰国予定を親に知らせるハガキを買いている。帰国は8月9日になるという。

 《飛行機の切符を買ったので、帰る日をお知らせします。ロンドンを8月2日に立って、シンガポールに行って、そこで1週間ほど滞在し、9日にシンガポールを立って大阪へ行きます。8月9日火曜日、シンガポール航空で大阪に17:15に到着します。6月の末までこの家にいて、7月はヨーロッパを旅行して、それから帰ります》

 だが、その1週間後の6月13日に、恵子さんは、親に告げた帰国予定をキャンセルすると小学校からの友人への手紙に書いていた。

 《もう帰りの切符も買ったのですが、今、突然と仕事が入って来たのです。その仕事というのはMarket research(市場調査)といって、仕事の内容は外国の商品の価格、需要、供給度などを調査する仕事なのです。この仕事だと世界中いろいろな所を見ることもできるし、やってみたいなあ、と思っています。(略)

 この仕事をやると日本へは帰れなくなります。家族には8月に帰ると言ってあるのですが、きっと帰れそうにありません。私としてはいいチャンスなのでやってみようと思っています。とにかく買った帰りのキップはキャンセルします。(略)
 でも何だかラッキーだったなぁー、こんな仕事が見つかるなんて思ってもいなかったし、外国で仕事ができるなんて、今すごく、うれしい気分です。少し大袈裟かもしれないけど、人生の第一歩を踏み出したといった感じです。まだ仕事もしないうちからこんなこと言っていいのかなぁ。とにかくガンバルゾー。・・》

 帰りの切符まで買っていたのに、帰国予定を変更させるほど恵子さんは有頂天になっている。6月6日のあと13日までに間にあったはずの「仕事」のオファーを、恵子さんは親に知らせてはいなかった。

 
 恵子さんは6月28日にホームステイ先を引き払い、翌29日にコペンハーゲンに着いている。コペンハーゲンから両親には絵はがきと封書が1通づつ届いたが、いずれも7月15日に「友達に会う」と書かれていただけで、帰国の予定変更については触れられていなかった。

 8月9日、嘉代子さんが大阪空港まで迎えに行くつもりで航空会社に確認の電話をいれると、恵子さんが便をキャンセルしていることが分かった。驚いて心配する家族に電報が届く。

 《仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子》

 恵子さんが差出人で、ギリシャアテネから発信された短い電報だった。

 しばらくして手紙が届く。

 《8月3日、1983

 先に帰国延期の電報が届き心配しているのではと思い、お便りしています。
 実は貿易関係の仕事が見付かり今、ギリシャに来ています。アルバイトとして2~3カ月の間、仕事を手伝ってほしいということで関係者の方々と、ヨーロッパを回り、市場調査をしているところです。今はギリシャにいますが、常に移動しますので、住所を知らせることができませんが、こちらの方々、皆さん信頼の置ける人ばかりなので、御安心下さい。(略)》

 手紙と電報の日付のつじつまが合わない。これはアリバイつくりのために恵子さんに書かせたものだったのだろう。

・・・・・・・・・・・・

 1993年5月、兵庫県警が明弘さんを訪ねてきた。警察は一枚の写真を見せた。恵子さんが男性と並んでベンチに座っている。コペンハーゲンの空港待合室で隠し撮りされたものだった。撮影されたのは、恵子さんが「友達」と会う予定の翌日、7月16日。そして、隣の男性は、キム・ユーチョルという北朝鮮外交官の旅券を持つ幹部工作員だった。

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コペンハーゲンの空港で隠し撮りされた恵子さん。左に見えているのがキム・ユーチョルの手

 詳細は省くが、この時期、北朝鮮の外交官の身分を利用した「工作」が相次ぎ、欧州各国の捜査当局は厳しい監視体制を敷いていた。恵子さんとキム・ユーチョルの写真はその監視活動の成果として日本の警察に提供されたものだった。

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キム・ユーチョル

 キム・ユーチョルは、1970年代末から80年代はじめにかけて、ユーゴスラビア北朝鮮大使館を拠点にして活動しており、その任務の一つは「よど号」犯とその妻たちの工作指揮だった。

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 「よど号」事件といっても知らない人が増えていると思うが、かつて共産主義暴力革命を呼号する「赤軍派」という集団があり、その一部メンバー9人が1970年に日航機「よど号」(当時日航機には愛称がつけられ、ボーイング727型機には日本の川の名前がついていた)をハイジャックして北朝鮮へと亡命した。

 ロンドンの恵子さんのホームステイ先のクリストファー・ポール氏は、恵子さんの交友関係について、私たちの取材にこう答えている。

 「恵子さんの英会話力はそれほど高いものではありませんでした。行動範囲は狭く、外の世界としては語学学校がほぼ唯一のものだったようです。また、非常に用心深い性格で、初対面の人には警戒的でした。彼女に近づくことができたのは、語学学校の同年代の日本人女性だったのではないでしょうか」

 その推測どおり、恵子さんがロンドンで学ぶ語学学校「インターナショナル・ハウス」で巧みに恵子さんに接近する一人の日本人女性がいた。用心深い恵子さんだったが、自分と同じ兵庫県出身だというその女性に「お姉さん」と呼ぶほどの全面的な信頼を寄せるようになる。

 失踪から19年たった2002年3月、その女性が恵子さん拉致を法廷で証言し、事件の驚くべき全貌が明らかになった。

 あの小泉訪朝の半年前のことである。
(つづく)

有本恵子さんの母、嘉代子さん逝く

 有本恵子さんのお母さん、有本嘉代子さんが亡くなった。

 2年ほど前から体調を崩していると聞いて心配していたが、ついに恵子さんに会うことはかなわなかった。残念だ。ご本人は死んでも死に切れない思いだったろう。

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有本恵子さん ロンドンに英語を勉強に留学したあと欧州から拉致された

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夕食には陰膳が供えられた

 《北朝鮮による拉致被害者有本恵子さん(失踪当時23)の母親、有本嘉代子さんが2月3日午後3時23分、うっ血性心不全のため神戸市内の病院で死去した。94歳だった。告別式は近親者で行った。喪主は夫、明弘氏。

 恵子さんは神戸市外国語大生として英ロンドンに語学留学中だった1983年、デンマークコペンハーゲン経由で北朝鮮に拉致されたとされる。88年には拉致被害者の石岡亨さん(同22)の実家に、石岡さんの手紙とともに恵子さんの写真や直筆の書類が届き、北朝鮮にいることが判明した。

 嘉代子さんは明弘さんとともに拉致被害者家族会で活動。全国各地で講演や署名活動に取り組んだほか、2004年には手記「恵子は必ず生きています」を出版するなど、被害者の早期帰還への協力を呼びかけてきた。最近は体調を崩し、入院していた。
 明弘さんは6日、支援団体の「救う会兵庫」を通じて「北朝鮮に拉致された恵子を取り戻すために嘉代子と二人三脚で頑張ってきましたが、妻は力尽きてしまい今は全く気持ちの整理もつかない状態です」とのコメントを出した。》(日経)

 きょう資料を整理していたら、この写真が出てきた。

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左から私、ハイダールさん、嘉代子さん

 2005年12月、拉致問題の集会に合わせ、1978年に北朝鮮に娘を拉致された娘を取り戻したいというレバノン人女性、ハイダールさんが来日した。

 来日を提案したのが私だったので、通訳も同行して2人分の渡航費、滞在費(12月12日から23日まで)をジン・ネットで負担することになった。本当はこういうとき、政府の拉致問題の対策費で支援してくれるといいのだが・・・

 日本到着翌日、ハイダールさんは神戸に向かい、有本恵子さんの実家を訪ねた。そして嘉代子さんと、同じ母親として一緒に闘いましょうと誓い合ったのだった。

takase.hatenablog.jp

 北朝鮮による日本人拉致は、1997年2月に横田めぐみさんの拉致情報が注目を浴び、家族会が結成されるまではほとんど知られることがなかった。

 ところが、有本夫妻はそれ以前の1988年から、警察や外務省、政治家の事務所に通い、娘、恵子さんの救出を訴えてきた。

 最も早く活動をはじめた拉致被害者家族だったが、当時はマスコミも含め、どこもまともに対応してくれず、夫妻はまさに孤軍奮闘してきたのである。

 嘉代子さんはいつも夕食の食卓に恵子さんの陰膳を供えていた。娘に会いたいという親心に切なくなった覚えがある。
 37年もの闘い、ほんとうにごくろうさまでした。心よりご冥福をお祈りします。

 有本恵子さんの拉致は、拉致の顛末がもっとも詳細に判明しているケースで、拉致という国家犯罪の残酷な実態がよく分かる。次回から連載で紹介したい。
(つづく)

宮本常一歌集『畔人集』によせて3

 3日、米大統領選の候補者選びの第一歩となるアイオワ州の党員集会が始まった。共和党はトランプ氏で決まりだが、民主党は11人が争う大混戦。
 集計システムのトラブルで結果発表が延び延びになる波乱の幕開けとなったが、それはともかく、候補者の顔触れは実におもしろい。
 11人中3人が女性で、有力候補の一人、エリザベス・ウォーレン上院議員は著名な法学者。ダークホースのピート・ブティジェッジ氏は弱冠38歳、人口わずか10万人のまちの市長で同性愛者だ。

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左がPeter Buttigieg。右はパートナー

 前ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグ氏は大手総合情報サービス会社「ブルームバーグ」創業者で億万長者。両親が台湾移民のアンドリュー・ヤン氏は、全アメリカ国民に月1000ドルをベーシックインカムとして分配する政策で一躍注目されている。女性下院議員、トゥルシー・ギャバード氏は、米国議会で初めてのサモア生まれで、ヒンドゥー教徒の議員という変わり種だ。
 アメリカの民主主義がいろいろな問題点をもつとしても、このように多彩な人材が大統領候補者として政治の舞台に押し上げられてくる許容度の大きさは大したものだ。今後も注目していこう。
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 節分の翌日、きょうは立春だ。旧暦では一年の始まりは立春からで、八十八夜、二百十日などは立春から数えた節目となる。立春以降、最初に吹く強い南風を「春一番」という。
 初候「東風解凍」(はるかぜ こおりをとく)が2月4日から。次候「黄鶯睍睆」(うぐいす なく)が9日から。末候「魚上氷」(うお こおりをいずる)が14日から。
 本格的な寒さも立春までとされるが、今年は異例な暖冬。1月の平均気温が関東以西は1946年の統計開始以降、最高になり、降雪量は、北日本から西日本の日本海側で、61年の統計開始以降で最も少なかったという。2月も同じ状況が続くらしい。
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 宮本常一に師事した民俗学者、田村善次郎さんが宮本の歌を編んだ『畔人集』(くろひとしゅう)。畔人は宮本の雅号だが、この読み方に、やはり「水仙忌」に参加して歌集をいただいた法政大探検部OBの岡村隆さんが異論を唱えている。

《「くろひと」か「くろんど」か? 宮本常一歌集の謎。
昨夜(1月30日)の「水仙忌」で配られた宮本常一歌集の『畔人集』。宮本先生の一番弟子だった田村善次郎先生が個人で編集制作し、みんなに贈呈されたもの。本当にありがたいことだ。その際、この『畔人集』の「畔人」の読み方が問題になったが、田村先生は「くろひと」と読むことにしていると言い、みんなもそうなのかなあ……という結論になった(誰も宮本先生本人からこの雅号を音で聞いた者はない)。生涯、百姓を自認していた宮本先生だから「くろひと」でも「くろびと」でも「あぜびと」でも似合ってはいるが、帰宅後に考えてみると、これは音便化して「くろうど」とも「くろんど」とも読めることに気がついた。田村さんも宮本先生が小学校教員時代「クロンボ先生」と呼ばれていたことを書いているが、そこからすると、これは本当は「くろんど」なのではないかと考えた次第だ。田村先生に逆らうわけでは決してないが、ゆかりある皆さんのお考えはいかがだろうか。》https://www.facebook.com/takashi.okamura.944/posts/1572907692850648
 宮本を慕う人たちが、こうした議論を交わすのを見るのは楽しい。

 『畔人集』に収められた宮本の第一歌集というべき『自然に對(むか)ふ』は1930年、宮本23歳で編んだものだ。
 宮本常一の年表によると、1933年に「私家版の歌集『歌集 樹蔭』を出す」とされている。『樹蔭』はガリ版刷りだったが、それより早い『自然に對ふ』は歌集といっても、宮本が手書きで原稿用紙にまとめたものだった。田村さんは、この歌集も復刻して2010年の水仙忌で配布してくださっていた。

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歌集『自然に對ふ』 綴じられてもいない原稿用紙の束

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 きょう、田村善次郎さんに電話でお聞きしたところ、宮本は病いの中、腹ばいでこれを書いたという。そのためか、字が乱れて読みにくいところがある。
 歌集冒頭には「重田堅一兄に捧ぐ」とある。大阪府天王寺師範学校時代の親友である。宮本は大阪の泉南郡の小学校に赴任して熱心に教育にあたっていたが、肺結核を病んでいることが分かり、1030年はじめに故郷の山口県周防大島に帰って療養生活に入る。重田さんは宮本の学費を支援しただけでなく、療養中も常に励ましてくれたという。歌集『自然に對ふ』は、重田さん一人に贈るために編まれたのだった。

名成さずばかへるまじをと誓ひたる 故里の地を病みて踏みたり

 当時、結核は「肺病」といって不治の病と恐れられていた。教員生活に入ってわずか3年、宮本は死病を得て、失意のなか故郷に戻らざるを得なかったのである。

心臓の鼓動の早き日よかなし、胸に手あてて脈をはかれる
恐ろしき死が吾(ワ)をつかむ夢さめて 何がなく侘し燈をつけにけり

 この時期の和歌に見られる宮本の心境から、彼の人生観をさぐってみたくなった。
 メメントモリ・・実は、このとき死の病にかかったことが宮本の人生を決定づけることになる。
(つづく)