死ぬ時節には死ぬがよく候 良寛

 節気はもう清明。万物ここに至りて皆潔斎にして清明なり。もう暦の上では晩春になる。コゴミやワラビも出てくるころだ。沖縄では「清明祭」(シーミー)という、墓前に親類縁者が食べ飲み踊る行事があるという。
 初候「玄鳥至」(つばめ、きたる)が5日から、10日からが次候「鴻雁北」(こうがん、かえる)。末候「虹始見」(にじ、はじめてあらわる)が15日から。
 きのうはお釈迦様の生誕日だった。


待たれにし花は何時しか散りすぎて
  山は青葉になりにけるかな
 江戸時代の禅僧、良寛の詠んだ歌だが、今か今かと待っていた桜はぱあっと華やかに咲いてさっと散っていく。ああ、惜しいな、散らないでほしいと思うのだが、良寛のこの歌は、時の移ろいをそれはそれとして静かに受け容れていく心境を詠っているようだ。


 「手鞠つきつつ」と、子どもと楽しく一日中遊ぶイメージが浮かぶ良寛だが、実は若いころ倉敷の圓通寺での非常に厳しい修行を経て、高い覚りの境地にあったという。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20160325

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良寛さんの肖像。絵本では丸顔に描かれるが、実際は面長の鋭角的なお顔だったようだ。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
 良寛が71歳の時、住んでいた越後を大地震が襲った。今の新潟県三条市周辺で1500人以上の死者が出た三条地震(1828年)である。地震で子どもを失った、親しい年下の親戚への見舞い状に書かれた一文だという。

    思い通りにいかない人生、さまざまな不幸に遭ったとき、こう納得することができたら、こわいものはなくなる。

 良寛は酒が好きだったようで、酒を詠んだ歌も多い。
あすよりの後のよすがはいざ知らず けふの一日は酔ひにけらしも


 良寛の自由闊達な生き方も、深い達観をベースにしていることを知ると、味わいが違ってくる。こんな爽やかな人生を歩みたいものだ。

第38回土門拳賞授賞式にて

 4日(木)の朝日川柳より


忖度(そんたく)を宣伝する世に成り果てぬ  兵庫県 野々口直秀
 エライさんが行政を私するのは当然で、私は忖度して実現してさしあげました。そんなことを誇らしげにいうとは世も末だな。今の政権はここまで腐っているのかと愕然とする。

 

黙秘させペラペラ語り梯子(はしご)する   茨城県 樫村好則
お祭りは済んだぞメディア煩(うるさ)いぞ  福島県 根本 中

 新元号、直前まで極秘にしておいて、いったん発表になると自分の手柄のようにメディアをハシゴして話しまくる。中国の古典からではないことを強調して支持率アップにつなげた。
 メデイアははしゃぎすぎ。しょこたんNHKの新元号特番で「どんな元号になるか、ドキドキしますね」などと煽り、発表直後からどのチャンネルもいっせいに列島各地から喜びの声を中継した。乗せられたのか、自ら乗ったのか。反省すべし。
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 東京・国立(くにたち)市は駅前からつづく桜並木が名物だ。
 ここが桜の名所になったのは、今上天皇の生誕(1933年)を祝してその翌年に大量の桜が植えられたのがはじまりだ。老木となり枯れかかったものも多く、それをケアしようという市民の桜守活動が行なわれている。https://takase.hatenablog.jp/entry/20171126

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 いま桜守活動を中心で担うのは子どもたちだ。一橋大学の前を通る「大学通り」には、桜を大切にしよう、木の根っこを踏まないで、などと書かれたポスターが立てられ、桜の根の周辺には菜の花などの草花が植えられている。子どもたちを指導しているのは大谷和彦さんで、毎年、桜コンシェルジュ展というアート展示もこの時期行っている。関心ある方はおはこびを。
大学通りの桜の保全活動には、大人のみならず、たくさんの子供たちが関わっています。2小、3小、5小、6小、7小、桐朋学園小学校、音大付属小学校、都立国立高校、都立第五商業高等学校の、生徒の皆さんの桜への想いの作品を会場いっぱいに飾ります。どうぞ見に来て下さい。入場無料です。
 日時  3月29日(金)~4月11日(木)  9時30分~17時
 会場  国営昭和記念公園 花みどり文化センター 第一、第二ギャラリー》
http://www.showakinen-koen.jp/information/sakura20190329/
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 5日(金)、第38回土門拳賞授賞式に招かれ、如水会館に行ってきた。
 このあいだブログに書いたように。今年の受賞者は高橋智史さん。https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/03/29/

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 授賞理由:受賞作の『RESISTANCEカンボジア 屈せざる人々の願い』は、カンボジアの強権政治に屈することなく闘い続ける人びとに迫ったドキュメンタリー。監視される日常生活、抗議の現場、デモ行進の最前線で、自身の安全をも顧みず、声を挙げ、祈り、仲間を助け合う市民の姿を追った。写真は全世界に発信され、知られざるカンボジアの現況と圧政に負けず闘う人びとの姿を世界に伝えた。

 高橋さん、2003年から15年間も撮影し続けた。
 受賞者挨拶で高橋さんは「不当な形で弱い立場に追いやられた人たちの願いを、何が何でも伝えると、その志をもとに、ファインダーを通してカンボジアの人々の願いを見詰め続けてきました」と語り、その決意をいっそう強めたエピソードを披露した。
 ある土地を強制収容された人々のデモを取材中、当局者が高橋さんの腕をつかんで、いますぐその(カメラの)データを消せ、さもないと投獄するぞと脅した。するとデモをしていた人たちが当局者と高橋さんの間に割って入って「人間の壁」を作って守ってくれた。「今すぐこの現場からサトシは逃げて、我々の届かぬ願いを伝えてくれ」と切望を託された。だから彼らの願いを受け止め、伝えるという志を貫き通していきたいと高橋さんはあらためて固く誓ったという。
 ジャーナリストが外国の紛争地になぜ行くのかという原点をここに見る。カンボジアの強権政治のもとで、国内のメディアも政治家も言論を封じられ、人々は「届かぬ願い」を世界に発信してくれと高橋さんに託した。カンボジアの人々は、高橋さんというジャーナリストを通じて世界とつながることを期待しているのである。
 高橋さんは、人々の願いを何が何でも伝えるという決意を、気負うことなく素直な表情で語った。今のジャーナリズム界にこういう志をためらいなく言える人がどれほどいるかなと考えさせられた。

 選考委員の写真家(大石芳野鬼海弘雄中村征夫)が三人とも欠席でさびしかったが、授賞式のあとの祝賀パーティでは、石川直樹(第30回受賞者)、桑原史成(第33回)、三留理男(第1回)の諸氏と久しぶりにご挨拶できた。
 懐かしい人にも出会えた。パーティの祝辞を述べた熊岡路矢さん(カンボジア市民フォーラム共同代表)で、彼と会ったのは1983年、タイで。高橋さんが生まれた頃だ頃だ。当時、熊岡さんは、日本の海外NGO活動のさきがけとなったJVC(日本ボランティアセンター)で、タイのカンボジア難民キャンプの救援活動をしていた。あれから35年、今もカンボジアを良い国にしようという地道な活動を続けている。
 昔話をしていたら、熊岡さんが、「あのころバンコクにいた日本人、ボランティアもジャーナリストもバックパッカーも、クセのある人がいっぱいいましたね。今の日本はサーッと漂泊されちゃって、クセのある人はいなくなっちゃいました」と言う。
 「漂泊された」という表現が面白くて笑ったが、分野は違うけれど、熊岡さんも世相をそう見ているんだなと同じ年配者として共感した。

     いい授賞式だった。

    16日から新宿ニコンプラザで、高橋さんの受賞記念写真展が開かれるので、おいで下さい。

鬼海弘雄『PERSONA最終章』出版によせて

 きのうは東京も肌寒かったが、雪が降った地域も多かったという。山形県米沢市では8センチの積雪だったとか。週末には暖かくなりそうで、どこかで花見をしたい。

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近所のゴミ捨て場の桜の老木。まだ枯れちゃいないぞとでもいいたげにきれいな花を咲かせている。

クラクフの旅より
 ポーランドクラクフ旧市街は1978年に世界文化遺産に登録された。古い懐かしい通りの散歩を大いに楽しんだ。
 

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中央市場広場。欧州でも最大級だそうで、真ん中に織物会館があり、かつての交易による興隆を示す。広場の一画にある聖マリア教会のてっぺんから撮影

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聖マリア教会は13 世紀に建てられたゴシック様式

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ゴージャス!祭壇、パイプオルガン、設備の一つ一つが博物館の展示のようだ

 先日、写真家の鬼海弘雄さんから「クラクフ、懐かしい」と連絡をいただいた。クラクフアンジェイ・ワイダ監督の故郷で、鬼海さんの写真展を1999年、2002年と開き、そのさい鬼海さんが招かれてクラクフに滞在したという。鬼海さんもこの街の落ち着いたたたずまいがとても気にいったそうだ。
 鬼海さんは同郷の尊敬する写真家だ。先日、書店に新しい写真集『PERSONA最終章』が並んでいた。2004年に土門拳賞を受賞した代表作『PERSONA』(ペルソナ)の後、撮り続けた肖像写真をまとめた続編だ。春には出ると鬼海さんに聞いて、楽しみにしていたが、ついに発売になった。

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 写真集の解説を小説家の堀江敏幸さんが書いている。
 「写真家・鬼海弘雄は1973年から45年間、浅草・浅草寺境内で市井の人のポートレイトを撮り続けている。
 そこに映る人の佇まいに魅了され、一度見ると忘れられず、何度でも繰り返し見てしまう。
 映画監督アンジェイ・ワイダも、鬼海のポートレイトに魅せられてしまった。
 彼の招きによってポーランドで展覧会が開かれ、「王たちの肖像」と呼ばれていた一連のシリーズは、こう呼ばれた。
 「PERSONA」
 鬼海弘雄と彼の浅草ポートレイトの代名詞となり、世界各地で続々と鬼海の「PERSONA」展が開催され、2003年に刊行された同名の写真集は入手困難な伝説と化した。
 伝説から15年──
 前作以降に撮影された作品を編み、ここに完結編と言うにふさわしい最新写真集を刊行。
 朱色に塗られた壁のまえでレンズと対峙している者たちをとりまく緊迫した空気には、怯えも、悲しみも、傲岸さも、やさしさも、すべて剥がれ落ちることなく表現されている。」
──堀江敏幸(本書・解説より)

 

 そうか、「ペルソナ」というタイトルはクラクフから始まったのか。あの街に一層のご縁を感じる。
 先月、『日本カメラ』3月号にその新しい写真集から何枚か紹介されていて、その一枚が以下。

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 キャプションが「猫(16歳)に英語で話しかける税理士 2013」。

 この短いキャプションが深い。これを読んで写真を観ると、すっとこの人の内面に入っていけるような気がする。友だちになりたくなる。
 『日本カメラ』に鬼海さんがこう書いている。
 《わたしは単純に「ひとが他人(ひと)にもっと思いを寄せ、ひとをより好きになればいいのだと・・」と思っている。そんなささやかな願いとともに、カメラを持ちつづけている。》
 ひとをやさしくする鬼海さんのカメラ。今の時代に求められる写真だと思う。機会があれば書店で写真集をご覧ください。

かつて日本は子どもの楽園だった(3)

 3年前、安田純平さんが解放される方法を探しに、ポーランドクラクフに行ったことを書いた。https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/03/24/
 あの街は実に美しかったなと今になって思う。クラクフポーランドの古都で、14世紀以降大いに栄え、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまでポーランド王国の都でありつづけた。
 ヴィスワ川を見下ろす小高い丘に「ヴァヴェル城」がある。対岸から城を眺めながらコーヒーを飲んだ。
 

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 《政府は28日、学校を長期欠席している子どもが虐待を受けていないか、緊急調査をした結果を公表した。教員らが面会をしたうえで、「虐待の恐れがある」と判断し、児童相談所や警察と情報共有をした子どもが2656人、面会ができず、「虐待の可能性が否定できない」として情報を共有した子どもが9889人に上った。》(3月29日朝日新聞
 

 陰惨な幼児虐待事件に心を痛めたであろう人が詠んだ歌が、31日(日)の朝日歌壇に入選した。


なかつたらうマンモスを狩る男らが弱き子供を虐ぐるとは我孫子市 島津康右)

 なるほど。氷河期までさかのぼるとは、すごい想像力だが、150年前の日本でも子どもの虐待はほとんど見られなかったようだ。明治初期に来日した外国人が、こぞって日本は子どもの楽園だと讃える声を紹介してきた。https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/02/28/

 当時、日本の子どもが親に可愛がられるさまを外国人たちは驚きの目で見ていた。
 「まだしゃんと立てないうちは、母親の背中にあるその王座を去ることはめったにない」そして立てるようになっても「まだ母親の乳房は捨てない」。(ネットー=明治6年~18年お雇い外国人として在日)
 「日本の子どもは三歳ないし四歳になるまで完全には乳離れしない」(アリス・ベーコン=明治21年華族女学校の教師として来日した米人)。

 こうなると甘やかされてわがまま放題に育ってしまうのでは?
 実際は逆で、来日外国人たちは、日本の子どもたちの、親や年上の者への恭順、礼儀正しさや落ち着きぶりにも感銘を受けている。
 まず、子どもが母親の背から降りて最初にすることは子守りだった。
 「日本の子供は歩けるようになるとすぐに、弟や妹を背負うことをおぼえる。・・・彼らはこういういでたちで遊び、走り、散歩し、お使いにゆく」(ブスケ=明治5年から司法省顧問として在日した仏人)

    「背負っている方の子供が、背負われている子供に比べてあまり大きくないこともある」(ネットー)

 維新前の1859年(安政6年)から神奈川でオランダ副領事だったポルスブルックは、毎週3回、中庭を開けて漁師の子どもたちを遊ばせてやったりおもちゃを貸してやった。

 「私は、あんなに行儀よくしつけの良い子供達は見たことがない。子供達は喧嘩したり叫んだりすることなくおとなしく遊び、帰る時間になるとおもちゃをきちんと片づけて、何度も丁寧に御礼を言って帰るのだ」。

 行儀の良さについては、モース(明治10年に来日し東京大学で教鞭をとり、大森貝塚を発見した生物学者)は東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。

 あるとき、モースは家の料理番の女の子とその遊び仲間の二人を連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。十銭づつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前におかれた笊(ざる)に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭づつ落とし入れたという。

 イザベラ・バード明治11年来日した英国女性で、東北地方から北海道まで通訳一人だけをつけて旅をした)はいつも菓子を用意していて子どもたちに与えたが、「彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいな」かった。許しを得るとにっこりと頭を下げ、他の子どもにも分けてやったという。

 手放しの愛情は子どもをスポイルするものだと考えていた欧米人には、理解しがたいことだった。(『逝きし世の面影』P396~416より)
(つづく)

カンボジアを撮り続ける高橋智史さんが土門拳賞に!

 いつも資金繰りで憂鬱になる月末の金曜日。昼食をと神保町を歩いていたら、山形ラーメン「ととこ」の隣の洋食屋で「米沢ブランド豚のソテー」の定食820円という看板が目に入った。この辺、山形づいているな。で、この店に入る。昔ながらの洋食屋で、大皿にキャベツの千切り、クリームコロッケ、ポークの下にはスパゲティが敷いてある。これにご飯と豚汁がつく。一つ一つが丁寧に作ってあってみなうまい。

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明大通り明治大学から下ってきたところにある「カロリー」

 神田駿河台下の交差点から明大の方にちょっと上がる。創業は1950年だというから70年前! 店の名前が「カロリー」。時代を感じさせる。戦後まだ5年、とにかくカロリーが高いことが大事だったのだろう。この辺は学生街だから、当時の若者たちがここで食欲を満たしていたさまを想像した。

 オフィスを移転してきて10年にもなるのに、神保町はまだ不案内だ。ちょっと出歩くといつも知らない歴史を発見する。

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    山形県出身の写真家に土門拳がいる。「土門拳賞」は写真界でも権威ある賞だが、今回選ばれたのは、カンボジアを撮り続けている高橋智史(さとし)さん。

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プノンペンに自宅があり、庶民とともに暮らしながら取材を続けている

 《毎日新聞社主催の第38回土門拳賞(協賛・ニコンニコンイメージングジャパン、東京工芸大学)選考会は、2月21日に東京都千代田区一ツ橋の毎日新聞東京本社で開かれ、高橋智史氏(37)に決定した。受賞対象となったのは写真集「RESISTANCE カンボジア 屈せざる人々の願い」(秋田魁新報社)。

 高橋氏の「RESISTANCE カンボジア 屈せざる人々の願い」は、カンボジアの強権政治に屈することなく闘い続ける人々に迫ったドキュメンタリー。監視される日常生活、抗議の現場、デモ行進の最前線で、自身の安全も顧みず、声をあげ、祈り、仲間と助け合う市民の姿を追った。写真は全世界に発信され、知られざるカンボジアの現況と、圧政に負けず闘う人々の姿を伝えた。》(毎日新聞3月19日)

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写真集「RESISTANCE」。秋田魁新報社

 高橋智史さんには、去年彼が15年も前からカンボジアを撮り続けていることを知って注目し始めたところだった。彼は日本のフォトジャーナリストとしてはユニークな存在である。

 ベトナム戦争の時代、多くの日本人がインドシナの地に何年も住みながら取材活動を行った。しかし今、海外のある場所に拠点を置く日本人ジャーナリストは少ない。

 しかも、高橋さんの写真は日本ではなく、主に海外、特に欧米諸国に発信されている。海外メディアで活躍する、数少ない「国際派」なのだ。

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武装警察が住民を強制排除する。いまカンボジアでは専制的な政権を後ろ盾に強引な「開発」が進み、各地で土地取り上げが問題になっている。ている。

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家と土地を返してと懇願する子どもたち

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一方で、高橋さんの写真集には、屈しない人々、特に女性の姿が映し出されていて印象的だった

 被写体は、カンボジア専制的な権力に抑圧される民衆で、この種の取材は権力の既得権に触れるので非常に危険だ。フンセン政権を批判した著名な政治評論家が首都のカフェで銃撃され殺される事件も起きている。弾がどこから飛んでくるか分からないという点では、戦場より危ない場合もあるだろう。

     地元の有力なメディアは潰されるか、政権に取り込まれてしまった。外国人ジャーナリストにも圧力がかけられ、次々にカンボジアを去っているという。そんななか、高橋さんはよくやってきたなと感心する。

 今回の高橋さんの受賞が、報道写真を志す若者に、日本以外でテーマを追求するこんな道もあるんだよと可能性を示すことになればいいと思う。

 今週26日から故郷、秋田で写真展があり、高橋さんはいま里帰りしている。写真展は以前から予定されていたものだが、たまたま土門拳賞受賞発表直後にあたり、昔風にいうと故郷に錦を飾った形。

 会ってお話しすると、高橋さんはとてもまっすぐで「いいやつ」だった。その人柄もカンボジアの人々の信頼を得ることにつながっているのだろう。

参考記事

https://gardenjournalism.com/feature/20171119/

子宮頸がんワクチンをめぐる理不尽な判決

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 ここを幽霊坂という。オフィスのJR最寄駅、御茶ノ水のすぐそばにある。案内板には英語でHill of Ghostと記されている。おもしろそう。名前のわけは、「このあたりは木々が繁っていて昼間でも薄暗かったことから。幽霊坂の名が付けられています」(案内板より)。
 御茶ノ水駅は文京区と千代田区の境で、近くに坂が多い。東京都で最も坂の地名が多いのは文京区だそうで126もあるとのこと。東京西部から続く武蔵野台地の東縁部に位置しているからだという。風景は一変したはずだが、坂の名前の由来を辿るのは楽しい。
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 26日(火)の午後、私は東京地裁である判決を聞いていた。その判決は私にとっては理不尽きわまるものだった。これでまた日本では、子宮頸がんワクチンの推奨が遅れ、救われたはずの多くの命が失われることになるかと暗澹たる気持ちで地裁を後にした。
 厚労省が指定した子宮頸がんワクチン副反応研究班の主任研究者である池田修一氏が、厚労省の成果発表会で、マウスの脳切片を示しながら「明らかに脳に障害が起きている。子宮頸がんワクチンを打った後、脳障害を訴えている少女たちに共通した客観的所見が提示されている」との衝撃的な実験結果を発表。これはTBSテレビの夜の「ニュース23」で全国に流され、ワクチンに対する恐怖感を決定づけた。https://takase.hatenablog.jp/entry/20171214

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 問題のTBSニュース23のニュース動画はこれだ。https://www.mamoreruinochi.com/wordpress/wp-content/uploads/docs/publication/hei79-1.mp4
 少女たちが検証なしにワクチンの副反応による被害者として登場したあと、池田氏の研究発表が決定的な証明のように紹介される。この報道を見たら、誰でも怖くて子宮頸がんワクチンなど禁止せよと思ってしまう。

 医師・ジャーナリストの村中璃子さんが、この「実験」があまりにもずさんで恣意的であり、科学的には全く意味のないことを指摘、「捏造」と批判したところ、池田氏が雑誌『ウエッジ』と編集者、村中さん相手に名誉棄損の損害賠償訴訟を起こした。
 26日に出た判決は池田氏側の全面勝訴で、被告側に330万円の支払いを命じたほか、『ウェッジ』に対しては、記事の一部削除と謝罪広告の掲載を命じた。
 原告側は、争点を科学の問題から「捏造」という言葉の定義の問題にすりかえることに成功した。https://japan-indepth.jp/?p=44879
 国内のニュースでは、原告勝訴を伝えるだけで、この裁判の意味をまったく報じていない。ワクチンの危険性が認定されたかのような印象になることを危惧する。

    村中さんはFBに、「日本のメディアは1つもわたしに取材してこなかったことに恐ろしいものを感じました。」と書いている。
 一方、海外では、日本の公衆衛生の今後を案じる記事が立てつづけに出ているという。
 《ジョン・マドックス賞主催者の1つSense About Science から声明が出ました
「裁判の恐怖は、村中璃子氏のようにその科学的誤りを指摘できる時でも、ジャーナリストやサイエンティストの科学的エビデンスを語る声を黙らせるだろう。これは公衆衛生に対する大きな脅威だ」》https://twitter.com/rikomrnk/status/1111269355894071296

 このブログで、《ノーベル医学生理学賞本庶佑(京大特別教授)が根本匠厚生労働相に、子宮頸がんの原因ウイルスの感染を防ぐ「ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチン」が現在、積極的に勧奨されていないことを指摘、「世界中で使われ、有効性があるという結果が出ている。WHO(世界保健機関)も非常に問題視している」、「ぜひすすめるべきではないか」と訴えた。》というニュースも紹介した。https://takase.hatenablog.jp/entry/20181013本庶佑さんが子宮頸がんワクチンを推奨)
 憂慮する医師、研究者がいくら訴えても行政はなかなか動かない。事態をここまでにしたのはメディアの責任が大きい。エビデンスにもとづく報道を切に望む。

幸せランキングで低迷するブータン

 オフィスの近くに蕎麦の名店「まつや」があるが、その前のエドヒガン(江戸彼岸)が満開だ。エドヒガンはソメイヨシノの片親(もう一方の親はオオシマザクラ)でもあるのだが、ソメイヨシノよりちょっと早く、お彼岸のころに咲く。白い一重のすっきりした桜の花である。

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左奥に「まつや」が見える

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 3月20日は国際幸福デーで例年 国連の関連団体が「世界幸福度ランキング 」を発表する。http://worldhappiness.report/
 《国連が定める「国際幸福デー」の20日に合わせ、各国の「幸福度」を順位付けした年次報告書がこのほど発表され、日本は昨年より順位を四つ下げ、156カ国・地域のうち58位となった。先進7カ国(G7)で最低だった。
 グテレス国連事務総長が支援する組織が発表。日本は各種指標のうち、健康寿命は2位、1人当たりの国内総生産(GDP)は24位だったが、自由度が64位、寛大さが92位と評価が低かった。
 2年連続の1位はフィンランドで、デンマークノルウェーが続いた。米国は19位、台湾は25位、韓国は54位、中国は93位で、最下位は南スーダンだった。》(共同)
 あの「幸せの国」ブータンは・・・と見ると、ずっと下位で、92位インドネシア、93位中国、94位ベトナムにつづく95位。実は毎年、低迷しているのだ。どうして?
 「どれくらい幸せと感じているか」を聞いた結果に、GDPや平均余命などの指標を点数化したという。つまり主観的な評価と客観的な社会のレベルをまぜて判定している。後者の指標は先進国が圧倒的に有利だ。
 幸福度ランキングはこれ以外にもいくつかあって、それぞれ結果が全く違うが、幸せを計るモノサシが違うのだからあたりまえだ。幸せを論じるとき、モノサシが何かがはっきりしないから深まらず、最後は「自分が幸せって思ってたらそれでいいんじゃない」と茶飲み話で終ってしまう。
 しかし、そもそも、幸せって計量化できるのか。

 さらに言うと、たぶん人類史で現代ほど「幸せ」を懸命に求めるときはなかったと思う。

     なぜ、我々現代人は幸せを求めるのか、そのあたりのことを書いてみたい。